【24第則】
二十四 離却語言
風穴和尚、因僧問、語默渉離微、如何通不犯。穴云、長憶江南三月裏、鷓鴣啼處百花香。
無門曰、風穴機如掣電得路便行。爭奈坐前人舌頭不斷。若向者裏見得親切、自有出身之路。且離却語言三昧、道將一句來。
頌曰
不露風骨句 未語先分付
進歩口喃喃 知君大罔措
二十四 離却語言(りきゃくごげん)
風骨の句を露さず、未だ語らざるに先ず分付(ぶんぷ)す。
無門曰く、「風穴、機掣電(せいでん)の如く、路を得て便ち行く。争奈(いかん)せん前人の舌頭を坐して不断なることを。若し者裏に向かって見得して親切ならば、自ら出身の路有らん。且く語言三昧を離却して、一句を道い将(も)ち来たれ」。
頌に曰く
風骨の句を露さず、未だ語らざるに先ず分付(ぶんぷ)す。
歩を進めて口喃喃(くちなんなん)、知んぬ君が大いに措くこと罔(な)きを。
「ある僧が風穴和尚に尋ねた、
僧『コトバは現象にとらわれ、沈黙は細部をかえりみず、どちらも相対的な価値観の一方に立つことにすぎません。どうすれば絶対の価値に通じることができるでしょう』
これに対して和尚は、
オレのアタマのなかをいつまでもサワがす想い
江南の春の三月のころのこと
鷓鴣が鳴く と
たくさんの花がいっせいに ガヤガヤ 言うのだ
と杜甫の詩*1を引用して答えとした、という。それでボクも以下引用」
ユングは『自我』をわれわれの意識体系の中心として定義する。われわれの意識は自我を統合の中心として、ある程度のまとまりをもっているが、それは何らかの偏りを避けることができず、意識の一面性は常に無意識によって補償される。このような意識と無意識を通じての心の全体性の在り方に注目して、ユングはそのような全体としての心の中心として、『自己』の存在を仮定したのである。
自己は人間の無意識内に深く存在するものとして、われわれはそれを直接に把握することはできない。ただその側面は意識内に何らかの象徴として把握されることになる。
ユングは自我と自己の相互作用の必要性を強調する。人間の心の中心があまりにも自我に片よってしまうと、それは根のない浅薄な合理主義に堕してしまう。さりとて、自我の存在を忘れてしまうと、その非日常性があまりにも強いために、現実と遊離した存在となってしまう。自我と自己との間に望ましい相互関係が確立されていてこそ、自己実現の過程をすすんでゆくことができるのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 河合隼雄『昔話の深層』
矛盾が消滅するとともに実在も消え失せてしまう。元来この矛盾と統一とは同一の事柄を両方面より見たものにすぎない、統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。
たとえば白と黒とのようにすべての点において共通であって、ただ一点において異なっているものがたがいにもっとも反対となる、これに反し徳と三角というように明了の反対なきものはまた明了なる統一もない。
もっとも有力なる実在は種々の矛盾をもっともよく調和統一したものである。
統一するものと統一せらるるものとを別々に考えるのは抽象的思惟によるので、具体的実在にてはこの二つのものを離すことはできない。
一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用をなす部分を統一した上に存在するが、樹は単に枝葉根幹の集合ではない。樹全体の統一力がなかったならば枝葉根幹も無意義である。樹はその部分の対立と統一との上に存するのである。
統一力と統一せらるるものと分離したときには実在とならない。
たとえば人が石を積みかさねたように、石と人とは別物である、かかるときに石の積みかさねは人工的であって、独立の一実在とはならない。
そこで実在の根本的方式は一なるとともに多、多なるとともに一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。しかしてこの二方面は離すことのできないものであるから、つまり一つのものの自家発展ということができる。
独立自全の真実性はいつでもこの方式をそなえている、しからざるものはみなわれわれの抽象的概念である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 西田幾多郎『善の研究』
『二十億光年の孤独』 谷川俊太郎
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがつたりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがつたりする
それはまつたくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしやみをした
1998/12/27