【第26則】


   二十六 二僧卷簾

清涼大法眼、因僧齋前上參。眼以手指簾。時有二僧、同去卷簾。眼曰、一得一失。
無門曰、且道、是誰得誰失。若向者裏著得一隻眼、便知清涼國師敗闕處。然雖如是、切忌向得失裏商量。

    頌曰
  卷起明明徹太空 太空猶末合吾宗 爭似從空都放下 綿綿密密 不通風


  二十六 二僧卷簾

清涼(しょうりょう)大法眼、因みに僧、斎前(さいぜん)に上参す。眼(げん)、手を以て簾を指す。時に二僧有り、同じく去って簾を巻く。
眼曰く、「一得一失」。

無門曰く、且く道え、是れ誰か得、誰か失。若し者裏に向かって一隻眼(いっせきげん)を著(つ)け得ば、便ち清涼国師敗闕(はいけつ)の処を知らん。かくの如くなりと雖然も、切に忌む得失裏に向かって商量することを」。

    頌に曰く
巻起(けんき)すれば明明として太空(たいくう)に徹す、太空すら猶お末だ吾宗に合(かな)わず。争(いか)でか似(し)かん空(くう)より都(すべ)て放下して、綿綿密密、風を通ぜざらんには。


大法眼和尚が、だまってスダレの方を手で指すと、ふたりの僧が同時に立って同時にスダレを巻いた。

法眼『ひとりはヨシ、もうひとりはダメ』



「同一行為なのに一方は肯定され一方は否定されるという、例のパターン」



だが、私は必ずしも「競馬は人生の比喩だ」とは思っていない。その逆に「人生が競馬の比喩だ」と思っているのである。この二つの警句はよく似ているが、まるでちがう。前者の主体はレースにあり、後者の主体は私たちにあるからである。

        寺山修司(「栄光なにするものぞ」)



「肯定されるにしろ否定されるにしろ、選ばれるものとして、その時ボクたちは たしかにそこにいる。しかし、同じ行為をしたからといって同じように扱われて一緒に肯定されたり否定されるその時、ボクたちひとりひとりは ’同じ行為’という価値観のなかに吸収されて雲散霧消してしまうんとちがうか」


競馬においては「強い者が勝つ」という論理は通用などしない------本質が存在に先行するならば、賭けたり選んだりすることは無用だからである。「勝ったから強い」のであり、存在は本質に先行するからこそ、人は「存在するための技術」を求めてやまないのである。

       寺山修司(「過去を故郷とは呼ぶな」)



「ここで法眼和尚が言ってるのは分別意識による是非ではないんやろう」
「ふつうの分別がいきどまりになったところで、あえて是非を言ってみせている。是と非、有と無あるいは生と死。これらはけっして対立する二元的なものではない。公案はボクらの分別意識をどんづまりに追い込むことで、それを捨てさせようとする。そういうショック療法やろう。それは詩もおんなじと思う」


  『懐かしのわが家』 寺山修司

昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年か かかって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町字橋本の
小さな陽あたりのいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを


子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ



   1999/01/02


二十七【不是心佛】


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Last-modified: 2021-01-31 (日) 12:03:00