【第34則】
三十四 智不是道
南泉云、心不是佛、智不是道。
無門曰、南泉可謂、老不識羞。纔開臭口、家醜外揚。然雖如是、知恩者少。
頌曰
天晴日頭出 雨下地上濕
盡情都説了 只恐信不及
三十四 智不是道
南泉云く、「心は是れ仏にあらず、智は是れ道にあらず」。
無門曰く、「南泉謂つべし、老いて羞(はじ)を識らずと。纔(わずか)に臭口(しゅうく)を開けば、家醜外(かしゅうほか)に揚がる。是くの如くなりと雖も、恩を知る者は少なし」。
頌に曰く
天晴れて日頭出(にっとうい)で、雨下って地上湿(うるお)う。
情を尽くして都(すべ)て説き了る、只だ恐る信不及(しんふぎゅう)なることを。
南泉和尚は言った。『ココロはホトケではない。智は道ではない』
「『祖堂集』より、南泉のコトバ、
多くの人は心をブッダと見、知を道と考えている。見聞覚知、すべてブッダであるという。そういうことなら、ヤージュニャダッダが自分で自分の顔を探したのとおなじでないか。たとえ見つけだしても、けっして君たち自身じゃない。
(柳田聖山訳)
二十七則の【不是心佛】と同じ。解説書など読むと南泉の思想にてらして、あらゆる分別心を去って・・・・・・などと書いてるけど。ボクは例のごとく、これも 自己言及の不可能性のモンダイとして興味があるな」
『寺山修司青春歌集』より
わがカヌーさみしからずや幾たびも他人の夢を川ぎしとして
海よその青さのかぎりなきなかになにか失くせしままわれ育つ
見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし
一本の木を世界としそのなかへきみと腕組みゆかんか 夜は
青空より破片あつめてきしごとし愛語を言えりわれに抱かれて
町の遠さを帯の長さではかるなり呉服屋地獄より嫁ぎきて
濁流に捨て来し燃ゆる曼珠沙華あかきを何の生贄とせむ
この家も誰かが道化者ならん高き塀より越えでし羽揚
ある日われ蝙蝠傘を翼としビルより飛ばむかわが内脱けて
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭
人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ
みずうみを見てきしならむ猟銃をしずかに置けばわが胸を向き
一本の樫の木やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
1999/02/08
→三十五【倩女離魂】