絶対の詩学~『無門関』を読みながら【あとがきにかえて】


趙州和尚、因(ちな)みに僧問う『狗子(くす)に還って仏性有りや無しや』。州云く『無』。

          (『無門関』第一則【趙州狗子】)



しゃべるコトバがぜんぶ七五調になってしまうので困った、という歌人の告白を読んだことがあるが、ふれるものをなんでも黄金に変えてしまう王様の物語のようなものだろうか。ぼくはこのごろ読むものがなんでも詩論に思えてしまうクセがついてあさましい。
哲学書というと、なにかウワゴトのようなことが書き連ねられているアタマの痛くなる本と思っていて避けてきたが、西田幾太郎の『善の研究』をいままで読もうとしなかったのはウカツなことだった。

「もっとも有力なる実在は種々の矛盾をもっともよく調和統一したものである」



この高名な本はボクにとってほとんど詩論であった。西田哲学についてはこのごろ再評価するひとあり、逆に批判するひとありでにぎやかなことだが、難しい議論はテツガクのひとたちにまかせて、ぼくは勝手におもしろがるのだ。もっとも、詩は哲学ではない。宗教でもない。心理学でもない。それはわかっているが、詩を探さずにいられない。
西脇順三郎が「詩を哲学としてみるひとは四角のものを三角にみようとするひとだ」というような意味のことを言っていたと思う。ぼくがこれから書こうとすることも、そんなアヤマチかもしれない。しかし、そういう西脇こそ、その手で覆すものをすべて宝石にかえてしまうひとだったのではないか。

「只(た)だ者(こ)の一箇の無字、乃ち宗門の一関なり」

          (『無門関』第一則【趙州狗子】)



『無門関』(中国宋代禅宗の公案<禅問答>集)の作者、無門慧開は「無」の一字に禅の究極を見た。かれによれば、この「無」はたんなる「有」に対立するものとしての「無」ではないという。

かれは言う。肯定(相対的有)するか、否定(相対的無)するか、というような二者択一ではない、肯定も否定も許されない答えのない問いを昼も夜もその胸に抱き続けよ、と。相矛盾するものが同時に存在してショートして火花を散らす、その火でオマエの意識を燃やし尽くせ、と。

ありきたりな有無や存在否存在、あるいは自他の区別といった相対的世界を「無」という一箇の真っ赤に焼けた鉄の球を呑み込むことで、溶かし尽くせ、という。

この理性のどんづまり、そんな「絶対無」の場においてこそ、「人間的な願望から/人並みのあこがれから、/魂よ、つまりお前は脱却し、/そして自由に飛ぶという・・・・・・」(ランボー『永遠』/堀口大學訳)。

香厳和尚が言われた、「人が樹に登るとする。しかも口で枝をくわえ、両手を枝から離し、両脚も枝から外すとしよう。その時、樹の下に人がいて、 「禅とはいったい何であるか」と問いかけてきたとする。答えなければ問うた人に申し訳がたたない。そうかといって答えようものなら、樹から落ちていっぺんにあの世行きだ。さあ、そういう事態に直面したとき、いったいどう対応すべきか」。

          (『無門関』第五則【香嚴上樹】<西村恵信訳/岩波文庫> )



さあ、この口を開いて応えれば、みずからを死地に追いやるような問いに応えてみよ、という。

このような絶対矛盾の場においてこそ、絶対の世界が開ける、という。西田幾太郎はこの『無門関』の「無」の論理を出発点にして、「絶対矛盾の自己同一」で知られるみずからの哲学を作りあげた。

さあ、自分の座ったイスを自分自身で持ち上げさせるような問いに答えてみよ、という。

「禅とは何であるか」「ホトケとは何であるか」という問いかけは、じつは「オマエとは何者であるか?さあ、言え言え!」という詰問なのだ、とぼくは思う。

『無門関』を読みながら、ぼくはしばしば「わたしとは他者なのだ」というランボーの有名なコトバを思いうかべていた。ぼくはこのランボーのコトバが、詩人としてのかれのタメイキのように聞こえてしまう。ひとが口を開いてじぶん自身について語り及ぼうとした時、たちまちじぶん自身から墜落して彼方に遠ざかってしまう。そんなコトバとじぶんとの乖離。それでも詩人は口を開かずにはいられない。

そんな自殺行為を何のために?
理由なんてないだろう。コトバの移り気、不誠実さを承知のうえで、それでもコトバとじぶんがわかちがたく結びついているという意識を断ち切ることができない。それは詩人の原罪なのにちがいない。

『判決が先で、罪は後』

じぶんの外部にあるコトバを積み重ねるのが詩ではない。じぶんをコトバのなかに投げ入れてじぶん自身を「言語的に切断する」行為が詩である。
それから詩人は「わたし」の断片を拾い集めてジグソーパズルのように並べはじめる。
詩人がその時めざすのは創造ではなくて再生である。

じぶんとコトバがひとつになるためには、じぶんもコトバも共にみずから解体、自殺して大死一番、甦ろうとするのである。
有り金を残らず「無」に賭けるのである。

じぶんをじぶんでなくすると同時にコトバをコトバでなくするのである。このことはかならず同時に同一の場で行わなければならない。それはじぶんかコトバかという二者択一ではない、絶対矛盾が火花を散らす絶対無の場。そこにのみ絶対の世界は現出する。

コトバだけを解体しようとしても、それは相対的にすぎない。まだ抽象的である。そういう詩の多くは必然を欠いたクリスマスパーティーのごとく、らんちき騒ぎに終始する。ボクたちが存在するという現実から遊離している。

じぶんだけを解体しようとしても、それも相対的にすぎない。抽象的である。たとえば、どんなに精緻でも自己分析は詩でない。

ふたつのことはかならず同時に同一の場で行われなければならない。そうでないと、それは絶対の世界を示し得ない。

しかし、「絶対」の詩はとらえがたい。いざ実作となると、ある時は、じぶんによりかかり、またべつの時はコトバによりかかる。たいていはダダやシュルレアリスムのごとく否定ばかりの廃墟となってしまう。あるいは、肯定ばかりの道徳家の茶飲み話になってしまう。どちらも、しょせん、迷いの世界である。

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって
真昼の球体を 正午の詩を
おれは垂直的人間
おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない

    (田村隆一『言葉のない世界』)



しかし、垂直的人間にとどまるのもまた抽象的人間にすぎないのではないだろうか。

絶対の詩をもとめてウロツき、あらゆるものを食らう。この水平的イヌに仏性アリやナシや?

水平的イヌよ、ぼくは「一本の針でおまえの瞼を縫いあわせ、世界の風景をうばい去り、自分の途を見出すこともできなく(ロートレアモン『マルドロールの歌』/栗田勇訳)」して無の谷にオマエをつき落とす。「だからって、お前の道案内をぼくがするわけじゃないよ(同)」、なぜならオマエはぼく自身だ。そしてオマエは「高々ととびあがることだってできるのだ(同)」から。

・・・・・・ もちろん、これらのことはアヤマチにちがいないと思う。

ただ『無門関』という古い中国の坊さんの書いた本を読みながら、なぜかしきりと詩のことを考えたのだった。その不思議さを言いたかったのか。西脇順三郎風に言えば、ぼくの脳髄が存在することのジレンマに耐えかねて、自殺したがっただけのことかもしれないが。

もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番(つが)った
海だ。

    (ランボー『永遠』/堀口大學訳)



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Last-modified: 2021-01-31 (日) 12:37:00