【第18則】


  十八 洞山三斤

洞山和尚、因僧問、如何是佛。山云、麻三斤。
無門曰、洞山老人、參得些蚌蛤禪、纔開兩片露出肝腸。然雖如是、且道、向甚處見洞山。

    頌曰
  突出麻三斤 言親意更親
  來説是非者 便是是非人

  十八 洞山(とうざん)の三斤(さんぎん)
洞山和尚、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」。山曰く、「麻三斤(まさんぎん)」。

無門曰く、「洞山老人、些(さ)の蚌蛤(ぼうごう)の禅に参得して、纔(わず)かに両片を開いて肝腸を露出す。是の如くなりと然雖(いえど)も、且く道え、甚 れの処に向かって洞山を見ん」。

    頌に曰く
突出す麻三斤、言(げん)親しくして意更に親し。
来たって是非を説く者は、便ち是れ是非の人。



僧『ホトケとは何ぞや?』
洞山『三斤の麻糸さ』



『如何なるか是れ仏』という問いは仏道の最大のテーマだろう。もちろん禅問答でも数えきれないほどくりかえされている問答だそうだ。『無門関』だけでも四則がこの同じ問いを取り上げている。まあ、思想的には『空』とか『縁起』とか『諸法実相』(宇宙間のあらゆる事物がそのまま真実の姿であること)などということになる」
「禅というのはすべて体験的、具体的に言おうとするから、こういう表現になってるんやろ」
「自分のコトバで表現することが求められてる」


  『生きる』  谷川俊太郎

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木もれ陽がまぶしいということ
ふっと或るメロディを思い出すということ
くしゃみすること
あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
すべての美しいものに出会うということ
そして
かくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまが過ぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ



   1998/12/14



十九【平常是道】


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Last-modified: 2021-01-31 (日) 11:41:00