職業は『寺山修司』 |
| 「寺山修司。詩人、歌人、劇作家、演出家、映画監督。しかし、職業は『寺山修司』」 |
| 病名「腹水のみられる肝硬変」 「寺山は主治医にこう訴えた『六十まで生かしてくれないか』」 |
| 「どう生を全うさせることが出来るのか。これは二年間にわたった詩人と医者の苦悩と友情の物語である。『墓場まで何マイル?』」 |
| 出演者の寺山への印象。 黒鉄ヒロシ「対談をやっていただいたんですよ…。そのときに黒いスーツで白いシャツで、スッと足元を見たらサンダル履きだったんですよ。エッ!と…。この俺は、なんてカタギなんだろうと思って」(笑) |
| 大槻ケンジは16歳のときにはじめて寺山の本を読んで「この人のところに行ったら自分にも何か起こるんじゃないか。自分の中の表現衝動を見出してくれるんじゃないか」と思って、演劇や詩の世界に入るきっかけになったそうだ。 |
人生の時間割 |
| 「寺山は大学病院で二ヶ月ほど入院していた。彼は不満を抱えていた」 寺山「今までの医者は僕の病気は診てくれたけれど、僕という人間を見てくれたことがない」 「寺山は詩人の谷川俊太郎に一人の医師を紹介され、この病院をおとずれたのである」 |
| 主治医。庭瀬康二(当時41歳)。 |
| 「しかし、その後、寺山の肝臓は激変する。1981年7月。晴海の貿易センターで行われた、天井桟敷の公演『百年の孤独』」 |
| 天のとうさん、呪われろ! 生まれたときから死んでいた。生まれたときから死んでいた。 舞い上がれ神様トンボ! |
| 「[庭瀬は]演劇の演出というものがこれほど体力を消耗させるものだとは知らなかったのである。…寺山は瀕死の状態にありながら入院を拒否する」 寺山「今、45歳なんだ。後5年だけは、演劇をやりたい。その後10年は、文筆一本に絞る。だから、60まで生かしてくれ」 「[寺山は]後何年生きられるか、とはけっして聞かなかった。絶望的な希望である。 こうして詩人と医師との二人三脚が始まったのである。肝硬変という病をたずさえて」 |
死ぬのはいつも他人ばかり |
| 「寺山修司が入院を嫌ったのにはわけがある。二度と病院から出られないという恐怖を知っていた男だった。はたちのころ世界の入り口で」 |
| とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を |
| 「天才少年歌人、そう呼ばれ始めた頃である。突然、病が襲いかかった。ネフローゼ…最悪の場合は死に至る」 19歳。新宿の病院に入院。生活保護をうけながらの貧しい闘病生活だった。 |
| 当時、書きつづった中学時代の恩師中野トクへの手紙。 |
| 「処女作品集『われに五月を』は入院中に出版された」
二十才 僕は五月に誕生した 僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる いまこそ時 僕は僕の季節の入口で はにかみながら鳥たちへ 手をあげてみる 二十才 僕は五月に誕生した
「病床から詩人は生まれたのである」 |
| 「死の淵からはい上がった寺山修司はまるで逃げ馬のように走り始める。 32歳で自伝を出すという異色の詩人でもあった。しかし『過去は一切の比喩に過ぎない』と自分の生い立ちを作り替えることに情熱を注いだ男である」 |
| 「体表作は<母親>。作品の中で幾度も捨てられ殺された母。母と息子のモチーフは寺山ワールドの創造の泉だった」
とんびの子なけよ下北かねたたき姥捨以前の母眠らしむ |
| 1982年。映画『百年の孤独』の撮影中に寺山は高熱を発して倒れた。 「東京に戻ってきたのは3月18日。…一時的な入院さえ拒み、映画の仕上げに没頭した。 このままでは十五年どころか一年も持たない」 |
| 『百年たったらその意味わかる。百年たったら…』 「そんな寺山に庭瀬医師は一つの提案を行った。<疑似入院>である。寺山の周囲には身の回りの世話をするものがいた。彼らを看護婦に見立て規則正しい生活を強制したのである」 |
未練 |
| 「自分の心情を告白するような男ではなかった。忍びよる死について語る人間でもなかった。しかし墓場の見えるアパートの一室でひとつの詩を書いていたことは事実である」
『懐かしのわが家』 寺山修司
昭和十年十二月十日に ぼくは不完全な死体として生まれ何十年か かゝって 完全な死体となるのである そのときが来たら ぼくは思いあたるだろう 青森市浦町字橋本の 小さな陽あたりのいい家の庭で 外に向かって育ちすぎた桜の木が 内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは 汽車の口真似が上手かった ぼくは 世界の涯てが 自分自身の夢のなかにしかないことを 知っていたのだ
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| ビデオレター。 谷川俊太郎から寺山修司へ。 「朝日新聞に載った新しい詩、よかったぜ。ちょっと田村隆一風だったけど…。言葉で言うと、なんだかちょっとみんな、かっこよすぎるような気がするけどね」 |
| 寺山修司から谷川俊太郎へ。 「谷川さんはコトバにすると何でもかっこよくなってしまう、って言うけど、コトバにでもしないと耐えきれない、っていうことも、時々ある…。言葉、言葉、言葉…、これが僕の近況です」
寺山は自分の肉体をカメラにさらした。 |
| 1983年1月22日。料理屋でのパーティーにて。谷川俊太郎撮影
庭瀬「何故、死にたくないのか」 寺山はじっと考えた。そしてつぶやいた。 寺山「この世への未練」 |
墓場まで何マイル? |
| 中央競馬会CM。 「寺山修司の残した傑作、そう呼ばれたコマーシャルである。」 出演、ナレーション。 |
| 「かもめは飛びながら歌をおぼえ、人生は遊びながら年老いていく。 遊び、ってのはもう一つの人生なんだな。人生じゃ負けられないようなことでも遊びでだったら負けることができるしね」 |
| 「ひとは誰でも<遊び>っていう名前の劇場を持っててね、それは悲劇だったり、喜劇だったり、出会いがあったり、別れがあったりする。そこでひとは主役になることも出来るし、同時に観客になることも出来る」 |
| 「ひとは誰でもふたつの人生を持つことが出来る。遊びはそのことを教えてくれる……」 |
| 1983年4月17日。第43回皐月賞のTV解説。最後の競馬となった。 寺山「ぼくは無条件でこの馬(優勝したミスター・シービー)は好きな馬だったし、吉永正人騎手だしね…」 |
| 1983年4月20日。容体急変。5月4日、詩人の心臓は停止した。 |
| 絶筆。『墓場まで何マイル?』 |
| 「寿司屋の松さんは交通事故で死んだ。ホステスの万理さんは自殺で、父の八郎は戦病死だった。従弟の辰夫は刺されて死に、同人誌仲間の中畑さんは無名のまま、癌で死んだ。同級生のカメラマン沢田はベトナムで流れ弾にあたって死に、アパートの隣人の芳江さんは溺死した。 私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない」 |
| 「私の墓は、私のことばではあれば、充分。」 |