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『寝ながら学べる構造主義』(内田樹/文春新書) というのがとてもおもしろかったのですが、そのなかのジャック・ラカンの項でラカンの鏡像段階論というのは、こんなふうに読み解かれています。

 ヒトのこどもは他の動物にくらべて、ひどく未成熟な状態でこの世に産み落とされます。
幼児はその未発達な神経や感覚系の器官ではじぶんというものを統一的なカラダや内面的イメージとしてとらえることはできません。
この不確かで混沌とした自己像の迷宮のなかで幼児は「原初的不調和」と「寸断された身体」というイメージに苦しめられる。
さてそんな幼児が鏡を見ているうちに、ある日、目の前で動く像が「私」であることにふと気づきます。この「私」との出会いが幼児にとっていかに劇的で喜びであるかは、幼児があきることなく鏡をのぞきこんで遊ぶことからもわかります。
他の動物は、鏡に映った像が実体のないものとわかるととたんに鏡に興味を失ってしまうのです。

この「イメージとしての私との出会い」をラカンは鏡像段階と名づけたそうです。しかし、この喜びにはおおきな落とし穴がありました。

もちろん人間が成熟するためには、この段階を通過することが不可欠なのですが、よいことばかりではありません。「一挙に<私>を視覚的に把握した」という気ぜわしい統一像の獲得は、同時に取り返しのつかない裂け目を「私」の内部に呼び込んでしまうからです。
たしかに、幼児は鏡像という自分の外にある視覚像にわれとわが身を「投げ入れる」という仕方で「私」の統一像を手に入れるわけですが、鏡に映ったイメージは、何といっても、「私そのもの」ではありません。
          (第六章 ラカンと分析的対話)



ラカンは言います。『たしかに<私>とその像のあいだにはいくつもの照応関係があるから、<私>は心的恒常性を維持してはいるが、それは人間が自分を見下ろす幽霊や<からくり人形>に自己投影しているからなのである。』

わたしならざるものを「私」と信ずることで、ヒトはアイデンティティを得る。そういう幻覚を見ることでヒトはかろうじてじぶんというものを保っている。
そういう意味ではヒトはみんな少しづつ狂っているのです。


「私探し」の果てにたどりつくのがどんな狂気の世界であったとしてもなんの不思議もないわけですね…。


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Last-modified: 2021-01-31 (日) 04:37:00