Essays
『寝ながら学べる構造主義』(内田樹/文春新書)というおもしろい本を書いた内田樹さんのサイトをのぞいたところ「内田樹の研究室: オリジナリティについての孔子の教え」というタイトルの日記で紹介されている詩人の片岡直子さんに関する記事に目がとまりました。

『文學界』という雑誌に掲載された片岡さんのエッセイについての考察なのですが、片岡さんは小池昌代さんの小説に平田俊子さんの詩の一節を水増ししたものが含まれている、という批判を展開しているそうです。
興味があったので少し検索してみると、いくつかのサイトで話題にされていました。そのなかで引用されていた片岡さんの文章に、

「詩を書き始めた初期においても、私は、先行の詩人の真似をした経験が無い。振り返って、あの作品はそうだったと思ったことも無い。誰もが知っている先行作品のパロディをするのとは異なり、真似をするとか、なぞるとか、黙って持ってくる、などというのは屈辱的な行為であるし、そんなことをするのなら書かなければ良いと思う。」



というのがありました。
……困ったなあ、というのがぼくの感想なのですが。いや、片岡さん自身がそのような矜持をもって創作活動されるのは結構なことなのですが、これをもってひとの作品の評価をされるということとなると、たとえばシェイクスピアも芭蕉もボードレールも宮沢賢治もエリオットも島崎藤村もパウンドも西脇順三郎もコクトーも寺山修司も「屈辱的な行為」にまみれた詩人たちであり、かれらはみんな「書かなければ良」かった、ということになってしまいます。詩人だけではありません、

「ピカソほど正々堂々と真正面から他人の作品と取り組んで、しかも執拗に繰り返しその試みを続けた作家はほかにいない。まして、一点の作品をもとに、数十点、ときには百点をも越える大量の連作を生み出した画家はほかにいない。何よりも、生涯を通じて絶えず「剽窃」を試み、歳とともにいよいよ頻繁に、いよいよ大がかりに行うようになった芸術家はほかにいない。ピカソほどすぐれた創造力を示しながら、その代表作のほとんどに「剽窃」の影がうかがわれるような作家は、まったく他には例を見ないのである」

  (高階秀爾『ピカソ---剽窃の論理』:ちくま学芸文庫)

「ピカソが若いころ、仲間たちはピカソに描きかけの絵を見せたがらなかったという伝説が残っている。盗む男の方が天才だったのである。藤田嗣治は自伝の中で、ピカソが自分の作品の前に三十分も立ちどまっていた、彼は自分から盗んだのだと、反対に盗まれる喜びの声をあげている」
  (池田満寿夫『模倣と創造』:中公文庫)



ピカソのあの豊穣な作品群も描かれなかったほうがよかったのでしょうか?

ここで考えたいことは、そもそも「独創」を作者の個性(personality)に帰する発想は、深瀬基寛によれば、せいぜい17世紀から18世紀あたり、ロマン主義運動にさきがけて作り出された比較的起源の新しい歴史的産物の一つである、ということです。それまでは「original」はたんに「写生」という意味にすぎませんでした。

単に一個の個性が他の個性と異なるが故に、そこに表現価値があるというならば、それは天狗鼻でも天下一品の団子鼻でも文字通りに天下一品であるに相違なく、それほどまでに平凡な事実を何故にわざわざ独創を生命とする芸術に表現しなければならないのだろうか。


だから、どの場合でも、芸術の立場からいえば、個性は表現の材料でもなく、主体でもない。君が僕でないというだけの目じるしにすぎない。個性は文芸の戸籍台帳であるにすぎない。芸術の材料は個性を遥かに越えて、およそ人間の経験に入り得るもののすべてである。だから、それは現実と可能の両世界をふくむ極大の世界である。芸術の創造主体はもちろん一個人の精神作用なのだが、エリオットのアナロジーを借りていえば、酸素と二酸化硫黄とを媒介する一本のプラチナの線条である。あれどもなきがごとき極微の世界である。むしろ自ら一個の実体を具えずして、他のすべてのものを媒介する無である。創造とは「無からの創造」である。だからそこには結合の無限の自由がある。これに較べると、各個人が一つしか有たないところの個性表現の自由はまさに牢獄の自由というほかはない。
                    深瀬基寛『エリオットの詩学』



こういうことを考えていると、ぼくはいつもコトバの問題にいきついてしまいます。
田村隆一が「われわれは生まれたときからコトバに包囲されてるんだ」というようなことをテレビのインタビューで言っていたことを、いま、ふと思い出しました。
佐藤信夫は『わざとらしさのレトリック―言述のすがた』のなかで漱石について

「彼は、いちども《まことしやか》に書こうとはしなかった。言語という奇怪な疑似自然に心をゆだねるには、いつもその疑似性を逆手にとる手管をもってするほかはない、という事実を徹底的にどこかで承知していたからであった。言語に対する醒めた《わざとらしい》つきあいかたが、けっきょくは、反語的に《まこと》を造形する方法である---それを一貫して実行しつづけたたぐいまれな作家が漱石であった---。」



と書き、ついで「すべての言語認識=表現は《諷喩》なのだ! …と大声で言ってみたい」と主張しています。諷喩、すなわち、たとえばなしです。これらを言い換えると、わたしというのは「たとえば…」の寄せ集めのようなものだ、と言ってみることができそうに思います。
片岡さんの言う「真似をするとか、なぞるとか、黙って持ってくる」というのは、ぼくたちの存在そのもののことではないでしょうか。

ところで、二十歳を越したばかりで深酷であり、同時に個性の限界を忠実に守ろうとするならば、その過大な要求は現実の個人の能力の堰を越えて横流れに流れるよりほかにはない。ということは必然に他人の畠を犯さざるを得ないということである。他人の畠を犯しながらそれを告白しようとしない役者は、必然にみずからの地金でないところの深酷劇を演ぜざるを得ない。だからこの場合には、日本のインテリ層に著しく見られる現象、深酷の模倣という現象が発生せざるを得ない。一般に個性の独創的表現といわれているものの大部分は他人の独創の模倣である場合が非常に多い。独創は伝統に媒介されない限り、単なる新らしさ、甲が乙でないというだけの差異にすぎないので、そういうものならば、幾万年もの昔から大自然が型の如く毎年反復しているように、今年の花は去年の花でないというだけのことである。独創はついにその対極の模倣へと飛火した。ところで、模倣は遠いアリストテレスの昔から芸術論の定石である。創造の裏は直ちに模倣である。これが独創の弁証法である。
                                    深瀬基寛『エリオットの詩学』

       2005/12/28  現代詩フォーラム

Tag: 詩論


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Last-modified: 2022-04-25 (月) 00:51:00