Essays
このところ歳時記が愛読書になってしまった。いままで一顧だにしてこなかった定型詩の世界にはまってしまったのである。

定型詩を避けてきたのにはわけがある。もともと短歌・俳句に興味がなかったうえに、現代詩なぞを読み始めたころ、「現代詩入門」といった本をいくつか読んだが、そのどれもが口を極めて定型詩(とくに短歌)を攻撃しているのだった。いわく「短歌的抒情は廃棄せよ」「奴隷の韻律」「第二芸術」etc・・・・・・。そんなわけで、すっかり洗脳されてしまい「自由詩こそ現代に生きる人間の歌、定型詩は過去の遺物、さらにいえば悪でさえある」と思いこんでいたのだった。

もちろん詩はそんなに単純なものではなく、定型のなかに優れたポエジイを盛り込むことは可能だし、当然ながら優れた歌人俳人は優れた現代詩人なのである。そんなことにこの年になって、やっと思い至るとは自身の不明もあるが偏見、先入観とは恐ろしい。
そんなわけで、遅まきながらの短歌俳句入門となった。入門といっても、これまで自分なりにかんがえてきた、詩(ポエジイ)の価値観は崩しようがないので、その視点から定型の世界を旅したいと思っている。だから正統的な短歌俳句を学ぼうとはべつに思っていない。

それで今いちばん興味があるのは「季語」というものの存在である。ポエジイを追求する際にしばしば陥ってしまう、あのイメージの自己増殖、現実からの遊離。それを防ぎ、イメージの世界と日常の世界を行き来する架け橋として季語をかんがえられないか・・・・・・。そんなことをぼんやりと思いながら歳時記を読み耽っている。

なぜ、歳時記をこんなにおもしろく感じるのだろうか?
なぜ、俳句なぞに惹かれるようになったのだろうか?
「イメージの世界と日常の世界を行き来する架け橋としての季語」という発想が自分のどんな部分から涌いてきたのだろうか?

などということを考えているうち、昨夜、ハッと思いだした本があった。それは種村季弘著『ナンセンス詩人の肖像』(ちくま文庫)という本であった。このなかでルイス・キャロルについては特に二章がさかれているのだが、そのなかに次のような一節がある。

『こうしてキャロルにとっても、物語を書くことは、ポーやわが露伴が円錐曲線の理論や釣糸の構造にたいするダイダロス的洞察を通じて錯綜たる迷宮を脱出しようとしたように、名づけられないものの呪縛を知的測量術によって解決する作業にひとしいものとなる。キャロルはそのためにチェスの駒やトランプのカードのような遊戯の規則のなかで一定した役割を担わされている記号的存在や分類学的に種の定義の明快なもの(花、動物、鉱物)を好んで寓意的フィギュアに選び、それを定義も命名も不可能な混沌に対比させて魔を封じようとする。しかし混沌を手なづけようとしてつぎつぎに繰り出される秩序整然たるこれらの軍勢は、毎度のように敵に逆手をとられて、本来の役割からは想像もできない意表を衝く働きをしながら此方側に送り返されてくる。』
       (「キャロル再訪 遊戯の規則」より)



この『・・・遊戯の規則のなかで一定した役割を担わされている記号的存在や分類学的に種の定義の明快なもの(花、動物、鉱物)を好んで寓意的フィギュアに選び、それを定義も命名も不可能な混沌に対比させて魔を封じようとする』という一節が僕の無意識に刻み込まれていて、どういう思考回路を辿ってか、あるとき俳句と結びついたのではないか?

だから季語や五七五という「枷(かせ)」があってこそ、俳句の世界は僕にとってワンダーランドなのだった。無季俳句や自由律俳句では困るのだ。山頭火や尾崎放哉ではダメなのである。

     (初出:1998.4 @ニフティ<現代詩フォーラム>)


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Last-modified: 2021-01-31 (日) 04:37:00