世界の詩論/シュペルヴィエル「詩法について考えながら」

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世界の詩論

僕が現代詩に到達し、ランボーとアポリネールに惹きつけられるまでには、長いあいだかかった。僕はこれらの詩人を古典主義詩人、ロマン派詩人から距てている、炎と煙の壁をつき抜けることができないでいた。ここで白状するなら、というよりむしろ、ぼくの願いをいうなら、ぼくはその後、炎を消さないように努めながら煙を吹き払ったひとびとのひとり、つまり和解者、古い詩と現代詩との調停者になろうとした。
  (中略)
ぼくらの時代には、詩作品でも散文でも、おびただしく狂気が浪費されたので、ぼくはもうそうした狂気に食欲をそそられなくなってしまい、自分自身に溺れた錯乱よりも、むしろこうした狂気を支配し、それに理性的外観を与えるようなある種の智恵のうちにこそ、食欲をそそる唐辛子や芥子まで含まれていると思うようになった。

    (シュペルヴィエル「詩法について考えながら」[訳]大岡信)


「動作」  ジュール・シュペルヴィエル


 ひよいと後ろを向いたあの馬は
 かつてまだ誰も見た事のないものを見た
 次いで彼はユウカリの木陰で
 また牧草(くさ)を食ひ続けた。


 馬がその時見たものは
 人間でも樹木でもなかつた
 それはまた牝馬でもなかつた、
 と言つてまた、木の葉を動かしてゐた
 風の形見でもなかった


  それは彼よりも二万世紀も以前
 丁度この時刻に、他の或る馬が
 急に後を向いた時
 見たそのものだった。


 それは、地球が、腕もとれ、脚もとれ、頭がとれてしまつた
 彫刻の遺骸となり果てる時まで経(た)つても
 人間も、馬も、魚も、鳥も、虫も、誰も、
 二度とふたたび見ることの出来ないものだつた。


                     (堀口大學訳)
 

シュペルヴィエルは十代のころにすこし読んでいる。きっかけは谷川俊太郎の詩について村野四郎が「リルケとシュペルヴィエールの声がきかれる」と、その影響を指摘している文(『現代詩を求めて』村野四郎著/教養文庫)を読んだことからだった。

シュペルヴィエルの詩の特徴を堀口大學は、「彼は平凡なありふれた物体から、破天荒なヴィジョンを引き出してくる」「彼の作品は如何なる前衛詩人にも劣らないほど進歩しているが、しかも決して不可解に陥ることをしない」と書いている。

なんとなく気になる詩人ではあるものの、あまり深くは接して来てはいなかったのだが、今回、初めて彼が自身の詩法について語っているのを読んで、全文引用したいくらいの感銘を受けてしまった。

「詩はぼくにあっては、常に、潜在しているひとつの夢からやってくる。ぼくはこの夢に方向を与えてやるのが好きだ。」

「詩はどんどん非人間化して言ったが、ぼくは、古典主義者たちに親しいあの持続と光の中で、今日の詩人、今日の人間の苦痛と希望と苦悩をひとびとに感じとらせようと決心した」

「ぼくは異様なものが風土に馴化され、人間の体温に合うように調節されない限り、それを好きになれない。ぼくは一本ないし数本の曲線で、一本の直線をつくろうとする」

「ある種の詩人は、しばしば、失神状態の犠牲になっている。かれらはひたすら自己解放の快楽に身をまかせ、詩篇の美しさを一こう気にかけない。
・・・かれらはなみなみとコップに酒をみたしながら、あなた方、つまり読者にそれを差しだすのを忘れてしまうのだ。」

ぼくは大部分の作家につきまとっている低俗さへの恐怖というものをほとんど持っていない。むしろ理解されないこと、異常視されることを恐れてきた。ぼくは神秘家のために書いているわけではないので、常に、感受性のあるひとがぼくの詩篇のひとつでも理解してくれなかったときには、つらく思ったものだ」

「霊感はぼくの場合たいてい、自分が同時にあらゆる場所にいるという感情、空間にもまた心情と思想のさまざまな異なる領域にも自分が同時にいるという感情によって現れる。ポエジーの状態はしたがって、一種の魔術的錯乱から生じるのであり、ここでは観念とイマージュは、それぞれ他のイマージュに先んじようとし---この領域ではすべてが隣り合い、真に離れているものは何ひとつない---あるいはまたイマージュを見分け難くしてしまうほどの深い変形(メタモルフオーズ)を受けようとして、生きはじめ、自分たちの背骨を捨て去るのである。

一方、夢と混ざりあった精神にとっては、対立物はもはや存在しない。肯定と否定は同じものになり、過去と未来、絶望と希望、狂気と理性、死と生もひとしく同じものになってしまう。内部の歌は高まり自分に適した単語を選び取る。深部で叫び求めながら動いていたイマージュたちが、原稿用紙のおもてに浮き沈みしているあいだ、ぼくは光にむかって進もうとする暗いものの努力に手をかしてやっているような錯覚をいだく。ぼくは危険な能力を生み出し、それらを祓い清めたのであり、それらを最も奥深い内部の理性の同盟者にしたのである。」

「ぼくはイマージュの助けを借りなければ思想の中へ進んでいけないのだ」

「イマージュは詩作品の中で無意識と一体化するが、一方概念は、多かれ少なかれ形式づけられており、理解のためにしか存在せず、詩作品が深部から少しずつ姿を現す別のイマージュに到達するのを助けるだけのものにすぎない」

「ぼくはぼくらのうちにひしめく最ももつれた感情、最も異様な感覚をも、素裸にしてしまうまで追いつめるのが好きだ。」

  「ぼくはいつも多かれ少なかれ、自分のうちに感じる怪物たちを攻撃することを恐れたものだ。ぼくはむしろそれらの怪物たちを日常語によってかい馴らしたいと思う。日常語はあらゆる言葉の中で一番信頼できるものだからだ。(幼い日々、大きな恐怖に襲われたとき、ぼくらをなだめてくれたのは、まさにこうした日常の言葉ではなかったか。)しばしばパニックの前兆ともなる異常奇抜なものの毒液を中和するために、ぼくはこれら日常語の、繰返し試練を経てきた知恵と友情に頼った。恐らくぼくは、いささかの狂気をしばしば馴らそうと努めたことによって、ぼくの知恵の最良の部分をかち得たともいえるだろう。」