詩の“リアル”について

Top > 詩の“リアル”について

Essays

テツガクとかいうことでなしに、詩人はむかしから“リアル”について考えてきたんだと思います。

そして詩のリアルはリアルそのものではなくて、リアルのエコー(反響)にすぎないと思う。谷川俊太郎風に言えば「不可能な接近の試み」でしょう。レトリックもエコーだし、そもそもコトバそのものがエコーだ。
リアルそのもをコトバにしようとすることは、千尋の谷の深さを一筋の髪の毛で測ろうとするようなことではないですか。

 
キーツは詩人というのはカメレオンであると言い、この世でもっとも非詩的な存在であると言いました。個体性を持たず、何か“それ自体”であるということがない、たえず他の存在のなかに入っていって、それを充たそうとする。
ランボーは「わたしは一人の他者である」と言って、あらゆる感覚をエコーさせようとしたし、シュールレアリスムも意識の流れもエコーだと思う。

 
定義、ということでなしにリアリティーのもんだいは避けて通れない。
まあ、こんな意見、迂遠に思われるだけかもしれませんが・・・。

   *   *   *   *   *   *

(上の文章を書きながらふとギリシャ神話の「エーコとナルキッソス」の逸話を思い出したので・・・)

「エーコとナルキッソス」の物語とはだいたいつぎのような内容です。

 

ニンフのエーコーは女神ヘーラーの怒りに触れて、誰にも話しかけることができず、ただ相手のコトバ尻をくりかえすことだけしかできなくされてしまう。
あるときエーコーは美しい青年ナルキッソスをひと目見て恋に落ちるが、自分の気持ちを伝えるすべを持たない。ただ彼がじぶんに話しかけてくれるときを待っていた。


あるとき狩りに出て仲間からはぐれてしまったナルキッソスは、「誰かいる?」と大声で言いました。「いる!」とエーコーは答えました。
「おいでよ」とナルキッソスが言うと、「おいでよ!」とエーコも答えます。
「いっしょになろう」ナルキッソスの呼びかけに、同じコトバで答えながらエーコーが彼を抱きしめようと駆け寄ったときです。
「離せ!おまえなんかに抱かれるくらいなら死んだほうがましだよ」とナルキッソスは残酷に言い放ちました。
あまりのことにエーコーは「死んだほうがましだ・・・」とつぶやくと身を隠し、やがてやつれはて、骨は岩になり、ただ声だけの存在になります。
 

この物語の結末は、復讐の女神ネメシスの呪いによって、じぶん自身に恋焦がれるものとなったナルキッソスが、泉に映るじぶんの姿を見つめ続けるうちに水仙になってしまう、という有名なハナシにつながってゆきます。

詩人とはこのエーコーのようなものかもしれません。けっしてナルキッソスではないだろうと思います。


Tag: 詩論