『運命の女』斉藤由貴(角川書店)

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こないだの、とある夕暮れ。
ベッドで、うすぼんやりと
ねっころがっていたら、
なんか、地震のような気配があったので、
ぱっとおきあがった。
しばらくの間、身体じゅうをすましてみたけれど
どうも、思い違いらしい。
なあんだ、とねっころがりなおして、
また じっ としてたら、
あ、わかった。
なんのことはない、
あたしのもつあらゆる血が、
身体じゅうのあらゆる血管で脈うつのが
自分を揺りうごかして、
地震のように感じただけだったのだ。

あたしはまず、血液の鼓動ってすごいなぁと思い、
それから次に、
こんなふうなひとりぼっちさ加減に
感心したのだった。



本棚を整理していたら出てきたのが、斉藤由貴『運命の女』 。1990年。角川書店。
当時、僕は女優としての彼女のファンだったので、買ってはみたもののほとんどナナメ読みで、帯カバーの村上龍の「斉藤由貴は、処女詩集で本物の表現者になってしまった。」というコピーが随分おおげさだなあ、といった感想しかわかなかった。
しかし、今回読み返してみると、おっ、これは・・・と惹かれる詩がいくつかあったのだ。

これはまるで、
水面に揺れる光の乱反射。
私の視線とあなたの視線が、
からんではほぐれ、くんでは解け、
そらしているのに身体がかんじてしまう。

どうしてあなたは、
私をきらいじゃないんだろう。
私はそのせいで、いまだに救われないでいるのだ。

頬にはじらいがともったので、
私はもう、あなたを見ていられない。



多くは少女詩風の恋愛詩なのだが、そういう詩にありがちな少女趣味からは抜け出ていてドキリとするようなスルドサを秘めている。

どうしてあなたが悲しそうな
顔をするのかわからない

先に恋をしたのは私なのに
ホンの軽口で沈んでしまうあなたは
私が思うよりずっと
罪は重いかもしれない
あなたがもしも本気でつかまって
しまっているのだとしたら、どうしよう
ここで私が逃げ出したら
どんなに惨酷に愉快だろう

どうしていつもこうなのだろう、
どうして



テレビなどで見る彼女は非常にナルシスティクな印象で、実際そういう面が詩にもでているが、自己陶酔型というよりもむしろ自分の内面のイメージにこだわる内向型の人と捉えるべきだろうか。たんなるナルシズムでない、陶酔する自分を見ているもうひとりの自分という視点をもっている。演技者と演出家とふたりの彼女が存在する。それが彼女の詩を平凡さからすくっている。

真っ白い庭の中で、私は心がなくなる。
たちんぼうのまま、夢と手をつなぐ。
時間は無気力にページをめくる。
パラパラ、パラパラ・・・・・・続ける。
(期待は、やめたがいいよ。)
肯定的なあきらめで、穏やかに身体は
しかんする。

そして、そこにいる最後の訪問者、
居ずまいよく
辛抱強く
私をまっていて下さった、

孤独に、極上のほほえみを。



普段、何を言いたいのか、何を伝えたいのか、わけのわからないようなゲンダイシなぞを読まされ(また書いて)いる身にすれば、斉藤由貴の世界はあまりにナイーブでとまどうが、「ひょっとして、こっちの方がホンマの詩ではないか」と、ふと思わされたのも事実。

ぷちんと心を断ち切って、
たんぽぽを摘む。



難解なゲンダイシに食傷ぎみの方にはぜひ一読を勧めます。(確か文庫本もでてたはず。)
さらにこの詩集の最終章は『マイ・シークレット・ラブ』と題された、彼女が「同志」とも「ワタシを何度も殺した人」とも呼ぶ、ひとりの男性へのラブレターのようなエッセイのような文章が綴られているのだが、今にして思えば、この男性はあの尾崎クンのことだったのだなあ、などと感慨深く、感動的でさえあります。

私が何かの言葉を失くしてしまったのは
誰のせいでもない、私自身の為だ。
私の中で何かが死んで、腐乱しつつある。
最初からそこにいた酷い真実が
ゆがみきって苦しむ針のかたちになって
きりきりと私にねじこんでくる。
こんな悪夢をみせたのは誰だ。



         (初出:1998/05/13 @ニフティ現代詩フォーラム>)

Tag: 詩人 女優