#author("2021-01-19T12:43:31+01:00","","") #author("2021-01-31T11:44:23+09:00","default:minoru","minoru") #menu(mumonkanMenu) 【第21則】 > ''二十一 雲門屎橛''&br; ''雲門、因僧問、如何是佛。門云、乾屎橛。'' ''無門曰、雲門可謂、家貧難辨素食、事忙不及草書。動便將屎橛來、撐門挂戸。佛法興衰可見。''&br; ''頌曰'' ''閃電光 撃石化'' ''貶得眼 巳蹉過'' ~ 二十一 雲門の屎(し)橛(けつ) 雲門、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」。門云く、「乾(かん)屎橛」。&br; 無門曰く、雲門謂(いつ)つべし、家貧にして素食(そじき)を弁じ難く、事忙(せわ)しうして草書するに及ばずと。動(やや)もすれば便ち屎橛を将(も)ち来たって、門をささえ戸を挂(さそ)う。仏法の興衰見る可し。&br; 頌に曰く 閃電光(せんでんこう)、撃石化(げきせっか) 眼を貶得(さっとく)すれば、巳に蹉過(さか)す。 &br; 「 >''僧『ホトケとは何ぞや?』'' ''雲門『ひからびたウンチさ』'' &br; 十八則の【洞山三斤】と同じく、『如何なるか是れ仏』の問い。その洞山の師匠が雲門和尚で、十五則【洞山三頓】でこの師弟の会話があった」 「洞山はホトケとは『麻三斤』だ、と言ったけど、さすが雲門は師匠だけあって徹底してるなあ。ウンチ、やもんなあ・・・・・・。これは、きれいなモノとかきたないモノとかいう分別を捨てよ、ということか。『麻三斤』と同じく、縁起なんかの考え方かね」 「ぼくは多少ちがうニュアンスを感じるけど。十五則の【洞山三頓】のとき、雲門の『お前はどこにいたんだね?』という問いは、場所を聞いたわけじゃなくて、『お前はお前自身から離れてしまっているではないか』と言っているんではないだろうかとボクは思った。今回の問答も<ホトケ=ウンチ>というふうに対象化して見るんでなくて、<ホトケ=ウンチ=お前(つまり、われわれ)>と、じぶん自身のこととして考えないといけないんではないだろうか」 「げえ~。ボクらはウンチみたいなもんやいうんかあ」 「みたいなもん、じゃなくてウンチそのものや、と言ってるのだ」 「ひどい・・・・・・」 「いや、雲門は逆説的にボクらを励ましているのや。 『オマエさんたち、生きていく上で挫折もあろう、負けるときもあろう。ときには世の中にとって自分が無価値な存在、ダメ人間であると感じるときもあろう。しかし、そんなダメなオマエさんたちひとりひとりが、じつはホトケそのものなのだ。だから、けっして絶望するなヨ』 と」 &br; > >> 『旅人かえらず』より 西脇順三郎&br; > 『旅人かえらず』より 西脇順三郎&br; 十二月の末頃 落ち葉の林にさまよう 枯れ枝には既にいろいろの形や色どりの 葉の蕾が出ている これは都の人の知らないもの 枯れ木にからむつる草に 億万年の思いが結ぶ 数知れぬ実がなつている 人の生命より古い種子が埋(うず)もれている 人の感じ得る最大な美しさ 淋しさがこの小さい実の中に うるみひそむ かすかにふるえている このふるえている詩が 本当の詩であるか この実こそ詩であろう 王城にひばり鳴く物語も詩でない &br; * &br; 誰が忘れて行つたのか この宝石 この極光(きょっこう)の恋を &br; * &br; 心の根の互(たがい)にからまる 土の暗くはるかなる 土の永劫は静かに眠る 種(たね)は再び種になる 花を通り 果(み)を通り 人の種も再び人の種となる 童女の花を通り 蘭草(らんそう)の果を通り この永劫の水車 かなしげにまわる 水は流れ 車はめぐり また流れ去る&br; 無限の過去の或時(あるとき)に始まり 無限の未来の或時に終わる 人命の旅 この世のあらゆる瞬間も 永劫の時間の一部分 草の実の一粒も 永劫の空間の一部分 有限の存在は無限の存在の一部分 この小さい庭に 梅の古木 さるすべり 樫 山茶花 笹 年中訪れる鶯 ほほじろなどの 小鳥の追憶の伝統か ここは昔広尾ヶ原 すすき真白く穂を出し 水車の隣りに茶屋があり 旅人のあんころ餅ころがす この曼陀羅の里 若き水鳥の飛立つ 花を求めて実を求めず だが花は実を求める 実のための花にすぎぬ &br; 「『臨済録』(臨済和尚は二則【百丈野狐】の黄蘗の弟子、臨済宗の祖)に似たようなハナシがある」 &br; >''上堂。云く、「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(むい)の真人(しんにん)有って、常に汝等諸人の面門(めんもん)より出入りす。未だ証拠せざる者は看よ看よ」。'' ''時に僧有り、出でて問う、「如何なるか是無位の真人」。'' ''師、禅牀(ぜんじょう)を下って把住(はじゅう)して云く、「道(い)え道え」。 '' ''其の僧擬議す。'' ''師托開(たっかい)して、「無位の真人是れ什麼(なん)の乾屎橛(けつ)」ぞ、と云って便ち方丈に帰る。'' ~ (臨済が)法堂の壇上に登って言った。 &br;『その生身のカラダに、なんの世間的な位をもたない真実の人間がいて、常にオマエたちの眼や耳や口から出たり入ったりしている。まだしっかりと見とどけていない者は、見ろ!見ろ!』 ひとりの僧が進み出て言う、 『位をもたない真実の人間、とは何者ですか?』 臨済は椅子から降りるや僧の胸ぐらをつかまえてせまった。 『さあ、オマエの思うところを言え!言ってみよ!』 僧はたじろいだ。臨済は僧を突き放して、 『なに、ひからびたウンチなのさ』 と言い捨てて、居室に引きあげた。 「臨済はこんなことも言ってる。『更莫外求。物來即照』」 「『更に外に求むることなかれ。物来たらば即ち照らせ』」 「うん。じぶんの外に価値を求めるな、みずからが光となって世界を照らせ------ということかと思う」 &br; 1998/12/18 &br; →[[二十二【迦葉刹竿】>MUMONKAN/迦葉刹竿]]