#author("2024-06-04T13:05:37+09:00;2024-05-28T20:21:15+09:00","default:minoru","minoru") #author("2024-06-08T03:13:12+09:00;2024-05-28T20:21:15+09:00","default:minoru","minoru") [[Poetry in Movies]] #menu(Poetry in Movies) /// *【映画の中の詩】 *【映画の中の詩】『舞踏会の手帖』(1937) &br;&br; CENTER:#htmlinsert(youtube.htm,id=asWJJ2v9jSg) **〈私はデュヴィヴィエの「舞踏会の手帖」でもひらくような感傷的な気分で、対談者のリストを取り出した。&br;私がたずねたかったのは実は彼等の正体ではなくて、この「五年間と言う名の時」の正体だったのかも知れない。〉&br; (寺山修司「五年目のノート」) 監督ジュリアン・デュヴィヴィエ。主人公の若き未亡人クリスティーヌを演じるのはマリー・ベル。 題名になっている「carnet de bal」(カルネ・ド・バル=フランス語でカルネは「手帖」、バルは「舞踏会」)は英語ではダンスカードと言われるもので、ウィキペディアによると「フォーマルな舞踏会にて、女性がダンス毎に踊る相手の予定をメモしておく為に使われたカード」とのこと。 クリスティーヌの初めての舞踏会。手帖に記されているのは十六歳の彼女に「永遠の愛」をささやいた男たちの名前。 若くして未亡人となった彼女はもう一度生きなおすために男たちをたずねる旅に出る。 デュヴィヴィエが得意としたオムニバス形式のドラマ仕立てが最も成功した一本とも言える映画で、フランス映画の古典的作品。 詩が引用されるのは弁護士をめざす若者だったピエール(ルイ・ジューヴェ)とのエピソード。表向きはキャバレーの支配人だが裏では泥棒稼業というのが現在の彼で、警察の追っ手が迫っているのにもかかわらず、クリスティーヌとの思い出の詩をくちずさんでいるうちに捕まってしまう。 >凍てつく寂しい公園を さまよう影がふたつ &br; 眼 おとろえ 唇 ふるえ ことば とぎれ とぎれ ささやかれ &br; 凍てつく寂しい公園を さまよう影がふたつ 帰らざる日々 しのびつつ &br; ーーきみは憶えているだろうか あの愛のいざないを &br; ーー時を止めよと お誘いなさる? &br; ーーきみの胸を震わす名は まだ僕の名か? きみが夢見るのは まだ僕の思いか? &br; ーーいいえ &br; ーーあの美しい日々 言葉などいらない くちびるが くちびるを ふさぐ &br; ーー悪くなかったわ &br; ーー空はどこまでも青く 希望はどこまでも広く &br; ーー希望! あの遠い空の下の影の広がるあたりに落としてきてしまった! &br; 影たちは ふたたび 揺れながら歩きはじめた やがて 夜の闇の中に その声と共に溶けていった 詩はヴェルレーヌの「Colloque sentimental」(感傷的会話)。 ドビュッシー作曲で歌曲になるなどよく知られた詩で、ちょっと拾っただけでもいろいろな人が訳していました。 竹友藻風「情の對話」 https://dl.ndl.go.jp/pid/962355/1/37 永井荷風「道行」 https://dl.ndl.go.jp/pid/1691156/1/72 鈴木信太郎「感傷的對話」 https://dl.ndl.go.jp/pid/1693938/1/140 堀口大學「わびしき対話」 https://dl.ndl.go.jp/pid/1696741/1/75 窪田般弥「感傷的な対話」 https://dl.ndl.go.jp/pid/12578797/1/35 中込純次「感傷的な対話」 https://dl.ndl.go.jp/pid/1698680/1/44 橋本一明「感傷的な会話」 https://dl.ndl.go.jp/pid/1698404/1/25 山田兼士「感傷的な会話」 http://baudelai.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-ccb4.html 動画の字幕は私の勝手訳ですので正しくはこれらの先生方のものを参照してください・・・。 クララ・デレブーズが出てくるフランシス・ジャムの詩は「僕は愛するあの時の・・・」というのがあります。 『ジャム詩集』倉田清 訳 https://dl.ndl.go.jp/pid/1698604/1/18 寺山修司監督作品『ボクサー』(1977)は当初の企画では主人公の元ボクサー役の菅原文太がかつての対戦相手たちを訪ねて歩く、ボクサー版『舞踏会の手帖』にしたい、というのが寺山の希望だったそうです。 たずねたかったのは人ではなく「時」の正体、だったのだと寺山修司は言う。 永遠の愛をたずねてクリスティーヌは時を遡っていくが「月日は百代の過客」というように時はとどまることなく流れるという意味で永遠なのであり、「見つけたのは死人のような人ばかり」という彼女の嘆息むべなるかな、というところでしょうか。 私を待っている人はだれもいない、と言う彼女は最後に気づきます。自分を待っているのは「未来」という「時」だけなのだ、と。 前にレビューした、第二次大戦中のアメリカ亡命時にデュヴィヴィエがハリウッドで撮った[[『リディアと四人の恋人』(1941)>Lydia (1941)]]は主人公リディアと若き頃彼女をを愛した男たちがつどい、それぞれとの過去を回想するが、実際にあったこととは異なり過去はいつのまにか美化され追憶される、という趣向のオムニバス映画でした。 共通するのは美しい夢を見すぎたものは現実に復讐される、ということなのでしょうか。 そんな美しい映画の数々を残したデュヴィヴィエは1967年10月30日のパリにおいて、運転する車で起こした衝突事故で死亡しています。享年71。 >この時を永遠にしようとは思わない この時はこの時で結構だ 私にも刹那をおのがものにするだけの才覚はある 既にいま陽は動いている (谷川俊太郎「鳥羽」) &br;&br; &tag(映画の中の詩);