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#author("2021-01-31T12:31:38+09:00","default:minoru","minoru")
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【第40則】
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   ''四十 趯倒淨瓶''&br;
''潙山和尚、始在百丈會中充典座。百丈、將選大潙主人。乃請同 首座對衆下語、出格者可往。百丈遂拈淨瓶、置地上設問云、不得喚作淨瓶、汝喚作甚麼。首座乃云、不可喚作木𣔻也。百丈却問於山。山乃趯倒淨瓶而去。百丈笑云、第一座 輸却山子也。因命之爲開山。''
''無門曰、潙山一期之勇、爭奈跳百丈圈圚不出、撿點將來、便重不便輕。何故。壍。脱得盤頭、擔起鐵枷。''&br;
    ''頌曰''
  ''𩗺下笊籬并木杓 當陽一突絶周遮'' 
  ''百丈重關欄不住 脚尖趯出佛如麻''
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  四十 趯倒浄瓶(てきとうじんびん)&br;
潙山(いさん)和尚、始め百丈の会中に在って典座(てんぞ)に充(あ)たる。百丈、将に大潙の主人を選ばんとす。乃ち請じて首座(しゅそ)と同じく衆に対して下語(あぎょ)せしめ、出格の者往くべしと。
百丈、遂に浄瓶(じんびん)を拈じ、地上に置いて問を設けて云く、「喚んで浄瓶と作すことを得ず、汝喚んで甚麼(なん)とか作さん」。
首座乃ち云く、「喚んで木𣔻(ぼくとつ)と作すべからず」。
百丈、却って山に問う。山乃ち浄瓶をテキ倒して去る。
百丈笑って云く、「第一座(ぞ)、山子(さんす)に輸却せらる」と。
因って、之れに命じて開山と為す。&br;
無門曰く、「潙山一期の勇、争奈(いかん)せん百丈の圏圚(けんき)を跳り出でざることを。撿(けん)点し将ち来れば、重きに便りして軽きに便りせず。何が故ぞ。聻(にい)。盤頭(ばんず)を脱得して、鉄枷を担起(たんき)す」。&br;
    頌に曰く
笊籬(そうり)并びに木杓(もくしゃく)を𩗺(よう)下して、当陽の一突周遮(しゅうしゃ)を絶す。百丈の重関も欄(さえぎ)り住(とど)めず、脚尖趯出(きゃくせんてきしゅつ)して仏麻の如し。


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>''百丈和尚は大潙山に僧堂を開くにあたって、その住持となるものの選抜試験をおこなうことにした。彼は浄瓶(手を清めるための水を入れておく瓶)を地べたに置いて、みなに言った。''
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''百丈『これを浄瓶と呼んではいかん。さあ、なんとか呼んでみよ!』''
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''すると、首座の善覚が進み出て、''
&br;
''善覚『さあて、木のかけらともいえません』''
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''と言った。百丈は霊祐に、オマエさんはどうだ、と問いかけた。霊祐は浄瓶に歩み寄って蹴り倒すとそのまま去って行ってしまった。''
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''百丈『善覚よ、霊祐の野郎にやられちまったな』''
&br;
''百丈は霊祐を大潙山の住持とした。''

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「これは、十四則の【南泉斬猫】のように『おまえは何者だ?』という問いのように思う。浄瓶を浄瓶と呼んではならない、というのは自己言及の不可能性を暗示してるんとちがうやろか。霊祐が浄瓶を蹴とばしたのは、趙州が草履をアタマの上にのせたのと同じことだと考えたいな」
「ぼくは、二十九則の【非風非幡】のときにあったやろう、あの、六祖恵能と神秀との詩の対決を思い出す」
「あのハナシをアレンジしたものかもしれんね。善覚の『さあて、木のかけらともいえませんねえ』というのは目の前の浄瓶を<浄瓶>とは呼ばないが、かといって他の名でよぶこともしない、これはこれで巧みな物言いだが慎重すぎてオモシロクない。そこで、ちょうど神秀が『身はこれ菩提樹。ココロは明鏡の台。チリなどつかぬように拭っておけよ』といったのに対して、恵能が『本来 無一物。どこにチリなどつくものか!』と斬り捨てたように、霊祐も浄瓶を蹴りとばした。善覚の物言いは、あまりに分別くさい。コトバを重ねることでオノレを守ろうとしている。『コトバでは、ほんとのところはいえないんだよね・・・・・・』といいながら、じつはコトバのなかに逃げ込んでいる。霊祐は善覚が守ろうとしているオノレを蹴りとばす」
「一度、死ね。と」
「そういうふうに読みたいと思う。ところで、このエピソードでは引き立て役になってしまってる善覚さんだけど、このひとも後には大禅匠となったそうだ。そういうこと考えると、恵能と神秀のハナシがつくりバナシといわれてるように、この霊祐と善覚のハナシもあやしい気がする。いや、根拠はないけど」
「恵能派(南宗禅)と神秀派(北宗禅)は対立してたそうだしね」



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>>  『人民党宣言----愛をこめて、詩人たちへ』 ローレンス・ファーリンゲティ&br;
>  『人民党宣言----愛をこめて、詩人たちへ』 ローレンス・ファーリンゲティ&br;
詩人たちよ 納戸からでてきて
窓を開けたまえ、ドアを開けたまえ
諸君は閉ざされた世界の穴ぐらに
長くこもりすぎた
下りてこい 下りてこい
ラッシャンヒルズからテレグラフヒルズから
ビーコンヒルズからチャペルヒルズから
ブルックリンハイツからモンパルナスから
それぞれの丘や山から下りてこい
人が小屋に火をつけブタをやくのを
みる暇はない
ローマが燃える時
ハレ・クリシュナを唄っていられない。
サンフランシスコは燃えている
マヤコフスキイのモスクワは燃えている
生命の固形燃料が。
夜の騎士が近づき
光りと熱とエネルギーをたべている。
雲はズボンをはいている
今はもう芸術家が高みにかくれ
この光景のむこうに、裏に
無関心に、爪を切っては
存在の純化をしている暇はない。
今はもうチッポケな文学ゲームの暇はない
今はもうパラノイアや憂うつ病の暇はない
恐れやのろいの暇はない
今こそ光りと愛の時だ。
わたしたちは見た わたしたちの世代の最高の精神たちが
詩朗読会の倦怠に破壊されるのを。
詩は秘密結社ではない。
それは神殿でもない。
秘密のことばと唱詠も役に立たない。
ウムムの時は終わった
スワの時がくる
地球と人類にわるい
産業文明の終末の到来に
スワとよろこぶ時だ。
今は顔を外にむけ
たっぷりと涅槃のカタチをして
眼を大きく開いて
今は口をいっぱいに開いて
新しい開かれたことばをしゃべり
すべて知覚ある存在と交感する時だ
すべての「都市詩人たち」
博物館にかざられ、私もそのひとり
詩についての詩をかいている
すべての詩人の詩人たち
すべての作詩講座の詩人たち
すべての家を崩壊したエズラ・パウンドたち
すべてのとびだし、ズッコケ、ばらばら詩人たち
すべての強調しすぎな具体詩詩人たち
すべての
すべてのグラフティにうめき声をあげる有料トイレ詩人たち
すべてのカバの木ではスイングしないA列車詩人たち
アメリカのシベリヤ地方のすべての製材所俳句の宗匠たち
すべての盲目の非現実主義者たち
すべての自己陶酔超シュールリアリストたち
すべてのベッドルーム見者たちと
物置アジプロ専門家たち
すべてのグルーチョ・マルクス詩人たちと
終日ゴロゴロしながら
労働者階級プロレタリアートについて語る
有閑階級同志たち
すべてのカトリック、アナキスト詩人たち
すべてのブラックマウンテン登山家詩人たち
すべてのボストン・ブラーミンとポリーナス田園詩人たち
すべての洞穴母性詩人たち
すべての禅僧兄弟詩人たち
すべての自殺志願愛好者たち
アメリカのありがたき波止場 心臓部で
すべての毛むくじゃら詩歌教授先生方
詩人の血を吸う
すべての詩評論家たち
すべての詩警察----
はげしいホイットマンのこどもたちがいるところ
偉大な声が優しさと尊厳をもって
よびかけているところ
偉大な新しいヴィジョン
偉大な世界観
この広大な地球の
高遠な予言的うたと
そこで うたうものすべて
それにつながるわたしたちの関係----
詩人たちよ ふたたび
この世の街頭にくだれ
昔ながら目に映る歓喜にあふれ
諸君の心と眼をあけたまえ
セキばらいして さあ語りだせ
詩は死んでいる おそろしい眼と
バファローのたくましさをもつ詩よ 万歳
口ごもるのをやめて声をあげたまえ
新しい全開の詩で
新しいみんなに共感的「大衆表出」で
ほかの主観的レベルで
ほかのうらがえし的レベルで
内側の耳にひびいている三つ又を
表面の下までつきさせ。
きみのすてきな自己について今もうたえ
今も語れ「群衆のコトバ」を----
詩はみんなののりもの
大衆をはこぶもの
ほかののりものでは運べないほどの
高みまでつれていく。
今も 詩は空から降ってくる
まだ開かれている街頭に。
まだバリケードはつくられていない
街頭には生きた顔がある
愛すべき男たちと女たちが歩きまわってる
まだ愛すべき生きものがどこにでもいる
そこに埋まってるすべてのものの
すべての秘密の眼にはみえる
はげしいホイットマンのこどもたちはそこにねむっている
目を覚ませ 開かれた大気の中を歩め。
&br;
    (中山容訳)

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   1999/04/20
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→[[四十一【達磨安心】>MUMONKAN/達磨安心]]

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