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#author("2021-01-31T12:33:44+09:00","default:minoru","minoru")
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【第48則】
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   ''四十八 乾峰一路''&br;
''乾峰和尚、因僧問、十方薄伽梵、一路涅槃門。未審路頭在甚麼處。峰拈起拄杖、劃一劃云、在者裏。後僧請益雲門。門拈起扇子云、扇子𨁝跳上三 十三天、築著帝釋鼻孔。東海鯉魚、打一棒雨似盆傾。''
''無門曰、一人向深深海底行、簸土揚塵、一人於高高山頂、白浪滔天。把定放行、各出一隻手扶竪宗乗。大似兩箇馳子相撞著。世上應無直底人。正眼觀來二大老惣未識路頭在。''&br;
    ''頌曰''
  ''未擧歩時先已到 未動舌時先説了''
  ''直饒著著在機先 更須知有向上竅''
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  四十八 乾峰一路&br;
乾峰和尚、因みに僧問う、
「十方薄伽梵(じゅつぽうばぎゃぼん)、一路涅槃門。未審(いぶか)し路頭甚麼(いずれ)の処にか在る」。
峰、拄(しゅ)杖を拈起し、劃(かく)一劃して云く、
「者裏に在り」。
後に僧、雲門に請益(しんえき)す。門、扇子を拈起して云く、
「扇子𨁝(ぼっ)跳して三十三天に上って、帝釈の鼻孔(びくう)を築著す。東海の鯉魚(りぎょ)、打つこと一棒すれば雨盆を傾に似たり」。&br;
無門曰く、
「一人は深深たる海底に向かって行いて、簸(ひ)土揚塵(ようじん)し、一人は高高たる山頂に立って、白浪滔天(はくろとうてん)す。把定放行(はじょうほうぎょう)、各一隻手を出して宗乗を扶竪(ふじゅ)す。大いに両箇の馳子(だす)、相い撞著するに似たり。世上応に直底の人無かるべし。正眼に観来れば二大老、惣に未だ路頭を識らざる在り」。&br;
    頌に曰く
未だ歩を挙せざる時、先ず已に到る。未だ舌を動ぜざる時、先ず説き了る。
直饒(たと)い著著(じゃくじゃく)機先に在るも、更に須らく向上の竅有ることを知るべし。


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>''『「首楞厳(しゅりょうごん)経」に、宇宙にあまねく偏在する仏たちは、みんな一つの路を通って涅槃に入った、とあります。でも、わたしにはその路がみえません』''
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''乾峰和尚は、しゅ杖を持ち上げて空にひとすじの線を引き、''
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''乾峰『ほら、ここ、ここ』''
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''後、僧は雲門和尚に参じて、''
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''僧『乾峰和尚の言われたこと、あれは何だったんでしょうか?』''
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''すると、和尚は手にしていた扇を差し上げて、''
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''雲門『この扇が飛び上がって、須弥山の頂上にある三十三天に昇り、帝釈天の鼻を突き上げた。東海の鯉が飛び跳ねて一打ちした水しぶきが、盆をひっくり返したような大雨になった』''


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「『無門関』全48則を読んできて、結局同じことをいろいろ言い換えているという感じやけど」
「それは例えば『無』にしても、なんかひとつの実体ではないからやろうね。路であって路でない、門であって門でない、入り口であって同時に出口でもあり、問いが答えでもあり・・・・・・。そういう矛盾した関係が同時に成立している場みたいなものが“絶対”であり“純粋”でありという・・・・・・。詩と同じで、なんかポエジィというのは“これだ!”というふうにはつかめない、えんえんと造っては壊し、というか壊すことが造ることでもあるような」
「ただナンセンスなコトバのゲームとは違う」
「それはやっぱり自己の存在を賭けてるからね。公案とは何かについて柳田聖山さんの本からおもしろいハナシを引用して終わりにしよう」
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>・・・・・・こんな、譬え話がある。ある人が、失ったものが見つかったときほど、嬉しいものはないという。別の人がこれをきいて、道ばたに自分で銅貨を落とす、そして自分で拾いあげるのだが、何度くりかえしてみても、ちっとも嬉しくない、当たり前のことである。あの人は、嘘を教えたのだろうか。
ところが、何度もくりかえして、落としては拾いあげているうちに、銅貨がどこかに転っていって、本当に所在が判らなくなる。さあ、大変だ、なんぼ探しても、見つからん。探せば探すほど、心配になる。試しに落としたことまで、後悔されてくる。わずかな銭だが、先の人の言葉にまで、あらぬ疑いが深まる。大騒ぎのあと、通りがかりの人が一緒に探してくれて、やっと草むらのかげにかくれていた銅貨がみつかる。今度は、本当に嬉しい、あの人のいうことは、やっぱり嘘ではなかった。当たり前のことだが、やってみてはじめて判った、というのである。本来、自分の銭だが、一度失ってみて始めて、自分のものになったのである。本当の自分を見つけるよりも、じつは一度失ってみる、実験の方が難しい。実験だと思っているうちは、まだ本当の実験にならぬからである。
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・・・・・・自分を一度見失って、本当に見つけだすための、そんなヒントを臨済禅では、公案と名づける。修行とは、そんな公案の学習に全身全霊を打ちこむ、狂気のことなのである。
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                    (柳田聖山『禅と日本文化』)


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>>  『鎮静剤』 マりー・ローランサン&br;
>  『鎮静剤』 マりー・ローランサン&br;
退屈な女より
もつと哀れなのは
かなしい女です。
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かなしい女より
もつと哀れなのは
不幸な女です。
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不幸な女より
もつと哀れなのは
病気の女です。
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病気の女より
もつと哀れなのは
捨てられた女です。
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捨てられた女より
もつと哀れなのは
よるべない女です。
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よるべない女より
もつと哀れなのは
追はれた女です。
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追はれた女より
もつと哀れなのは
死んだ女です。
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死んだ女より
もつと哀れなのは
忘られた女です。
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(堀口大学訳)


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   1999/06/09
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→[[【後序】>MUMONKAN/後序]]

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