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[[Essays]]
///2003/09/06
コラージュには自己を消しながらの自己主張というおもしろさを感じる。
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自己表現ではなく自己消滅がボクの昔からのあこがれだったが、それはこの世から完全に消えてしまうことではなかった。
ボクは消えながら存在したい、と思っていたのだった。
キャロル、ウォーホル、寺山修司などへの関心もそういう視点からのものだったと思う。
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寺山修司がよくベストテンをするのは、あれも一種のコラージュ好きなのだろう。
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自分だけのヒミツをもったいぶってうちあけるようなことが「オリジナリティー」
だろうか?
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あなたは自分自身の過去、あるいは日常を「引用」しませんか?
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だれでもが知っていることを、おもしろく聞かせたい。
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他人のコトバや作品からの「引用」には自己を消しながらの自己主張というおもしろさがある。自分自身の過去や日常からしか「引用」しないというのは自我が肥大化しているようで傲慢ささえ感じるな。
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アンディ・ウォーホルは「ボクは機械になりたい」と言ったそうです。
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>写真による複製は、位置を変えて視点を自由に選択できるレンズにだけは映っても人間の目には映らない眺めを、オリジナルから抽出して強調することができる。
あるいはまた、引き伸ばしや高速度撮影の特殊な手法の助けを借りて、普通の目では絶対に捉えられない映像を、定着することもできる。&br;
            (ベンヤミン「複製技術時代における芸術作品」)&br;

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