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[[Essays]]
///1998.5
>''『買い物という行為は、思考するそれよりも遙かにアメリカ的である』(ウォーホル)''

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ウォーホルにとって「買い物」することは「思考」することと同じ。
ということは、彼のアートとは「思考」することと同じ「行為」を探すことだったのだろう。
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>''『ブレヒトは、人間が皆同じ考えを持てばいいと思っていたと言われる。ぼくも誰も彼もが同じ考えでいたらいいと思う』(ウォーホル)''

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かれのアートのテーマは「自分を消しながら有名になること」だった。
そのために彼はさまざまなモノや人を自分のまわりに集めた。
みずからは考えることはない。人を考え込ますようなものを自分のまわりに集めるのだ。
それ自体はからっぽであるもの。そういうものの前で人は立ち止まって、それぞれの思考をめぐらすことになるだろう。
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>''『ぼくは存在の無いものを描きたいと思っていた。それで実在する非実在というものをさがしていた。そして見つけたのが、スープ缶だった』(ウォーホル)''

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ウォーホルの描く事物は消費文化への思い出に満ちている。消費文化への思い出、記憶は、わたしたちの影のようなものである。
広告というのはいわば<主人のいる影>である。
ウォーホルはその<影>をきりぬいて描く----つまり影の影をつくる----ことによって、その影を<主人のいない影>にしてしまう。

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近代思想が人間をヒストリーとしてとらえてきたことに対し、それは影の自己増殖であり、いわばストーリーにすぎないことをあばいていく。

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>''<問い>同じ図柄をいつもくりかえすのに、どんな意味があるのですか?''
''『なぜって全く同じものを見れば見るほど、意味はそれだけ消えてゆくし、それだけ気持ちよくなり、からっぽの気がしてくるものなのさ』(ウォーホル)''

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ヒストリーをストーリーに書き換えるとは、いわば生産中心の近代文明に対して消費社会の人間によるアナーキーな一撃を加えることともいえるだろう。

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ウォーホルは自分を消すことによって、その作品をいわば<主人のいない影>にしてしまう。
そしてわたしたちが、その作品の前に立つとき、わたしたちこそその<主人のいない影>という作品の主人となることができるのだ。
そしてそのことは同時にわたしにとっての<わたし>という主人、あなたにとっての<あなた>という主人が消えてしまうことでもあるのである。

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イメージは「自己」の影である。<「自己」という主人の影>。
そのイメージを「自己」から引き剥がす。
切り抜く、破り捨てる、消しゴムで消す、分解する、別のイメージを重ねる----自己なき影にしてしまう。

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コトバは事物、あるいは自己の影である。
コトバはモノでないことを異化的にきわだたせる。
切り抜く、破り捨てる、消しゴムで消す、分解する、別のコトバをまぜあわせる・・・・・・

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>''『ぼくは他人に”何を描けばいい?”と平気で尋ねることができる。''
''だって、ポップは外側からやってくるものなんだからね。''
''誰かからアイデアを頂戴するのと、雑誌からアイデアを探すのと、何が違うっていうんだろう』(ウォーホル)''

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     (初出:1998.5 @ニフティ<現代詩フォーラム>)

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