#author("2021-01-09T18:03:45+01:00","","") #author("2023-02-08T23:08:59+09:00;2021-01-31T04:37:00+09:00","default:minoru","minoru") #menu(EssaysMenu) [[Essays]] ///1998.5 >''『買い物という行為は、思考するそれよりも遙かにアメリカ的である』(ウォーホル)'' &br; ウォーホルにとって「買い物」することは「思考」することと同じ。 ということは、彼のアートとは「思考」することと同じ「行為」を探すことだったのだろう。 &br; >''『ブレヒトは、人間が皆同じ考えを持てばいいと思っていたと言われる。ぼくも誰も彼もが同じ考えでいたらいいと思う』(ウォーホル)'' &br; かれのアートのテーマは「自分を消しながら有名になること」だった。 そのために彼はさまざまなモノや人を自分のまわりに集めた。 みずからは考えることはない。人を考え込ますようなものを自分のまわりに集めるのだ。 それ自体はからっぽであるもの。そういうものの前で人は立ち止まって、それぞれの思考をめぐらすことになるだろう。 &br; >''『ぼくは存在の無いものを描きたいと思っていた。それで実在する非実在というものをさがしていた。そして見つけたのが、スープ缶だった』(ウォーホル)'' &br; ウォーホルの描く事物は消費文化への思い出に満ちている。消費文化への思い出、記憶は、わたしたちの影のようなものである。 広告というのはいわば<主人のいる影>である。 ウォーホルはその<影>をきりぬいて描く----つまり影の影をつくる----ことによって、その影を<主人のいない影>にしてしまう。 &br; 近代思想が人間をヒストリーとしてとらえてきたことに対し、それは影の自己増殖であり、いわばストーリーにすぎないことをあばいていく。 &br; >''<問い>同じ図柄をいつもくりかえすのに、どんな意味があるのですか?'' ''『なぜって全く同じものを見れば見るほど、意味はそれだけ消えてゆくし、それだけ気持ちよくなり、からっぽの気がしてくるものなのさ』(ウォーホル)'' &br; ヒストリーをストーリーに書き換えるとは、いわば生産中心の近代文明に対して消費社会の人間によるアナーキーな一撃を加えることともいえるだろう。 &br; ウォーホルは自分を消すことによって、その作品をいわば<主人のいない影>にしてしまう。 そしてわたしたちが、その作品の前に立つとき、わたしたちこそその<主人のいない影>という作品の主人となることができるのだ。 そしてそのことは同時にわたしにとっての<わたし>という主人、あなたにとっての<あなた>という主人が消えてしまうことでもあるのである。 &br; イメージは「自己」の影である。<「自己」という主人の影>。 そのイメージを「自己」から引き剥がす。 切り抜く、破り捨てる、消しゴムで消す、分解する、別のイメージを重ねる----自己なき影にしてしまう。 &br; コトバは事物、あるいは自己の影である。 コトバはモノでないことを異化的にきわだたせる。 切り抜く、破り捨てる、消しゴムで消す、分解する、別のコトバをまぜあわせる・・・・・・ &br; >''『ぼくは他人に”何を描けばいい?”と平気で尋ねることができる。'' ''だって、ポップは外側からやってくるものなんだからね。'' ''誰かからアイデアを頂戴するのと、雑誌からアイデアを探すのと、何が違うっていうんだろう』(ウォーホル)'' &br; (初出:1998.5 @ニフティ<現代詩フォーラム>)