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[[Poetry in Movies]]
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*【映画の中の詩】
*【映画の中の詩】『エドガー・アラン・ポーの愛』 (1942)
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>この手からこぼれ落ちる砂の せめて
一粒だけでも救うことはできないのでしょうか?
わたしの見るもの そう見えるものの すべては
夢の中の夢にすぎないのでしょうか?
         (ポー「夢の中の夢」)

エドガー・アラン・ポーと妻ヴァージニアの物語。結婚した時、ポーは27歳、ヴァージニアは13歳。
ヴァージニアは24歳の若さで逝き、その死の衝撃がポーに「アナベル・リー」等の作品をもたらしたと言われています。

ポーという人は長いこと本国アメリカでは評価を保留されてきた節があり、彼に対する賛辞の声は、まずフランスで、しかもそれがボードレール、マラルメ、ヴァレリーといった近現代の詩の流れを決定づける仕事をした人たちからあがった、というのが面白いと思います。

わたしなどには全くわからないことですが、英語を母国語とする人たちにはポーの詩はあまりに技巧があからさまで人工的に感じられるのだとか。
10本の指すべてに指輪をしているようだ、とかオルダス・ハクスリーだったかが評したそうです。

ポーは「構成の原理」という詩論で自分は最後に読者に与えたい「効果」から逆算して全体を組み立ててゆくと言って、その創作の舞台裏を手品師が種を明かすような口調で語っています。

詩とはおおむね百行程の長さを持ち、その目的とする読者に与えるべき効果とは「美感」であると言います。
そして美感を高める最良のトーンは「悲哀」であり、哀感の極みは愛する人の死である・・・といった具合にジグソーパズルのピースをはめ込むように詩を作るのだそうです。

ただポーが実際にこのようにして詩を書いていたのかどうかはわかりませんし、T.S.エリオットのように、これは単にポーの限界(短く、単一な効果をもつ詩しか書けなかったという)を示している、という意見をもつ人もいます(『ポーからヴァレリーへ』)。

そういう人の生涯、しかも真偽ないまぜの伝記映画ですから、ここからなにか真実だの教訓だのを得ようとするよりも、ただ佳人との死と別れというポー的な哀愁の美を感じ取ろうとするべきなのでしょう。
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