Note/Anthology/ラッシュアワー

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  • OVER THE SIN(現「poenique」http://poenique.jp/)ことだま ことのは−批評の部ー に投稿した時のやり取りです。

投稿時間:00/09/03(Sun) 23:50
投稿者名:藤原 実
URL :http://homepage1.nifty.com/poem-club/
タイトル:necoさん、三太夫+Tさん批評感謝

necoさん、三太夫+Tさん、はじめまして。
批評ありがとうございます。あんまりひとに詩の批評をしてもらったことがないので、すごく嬉しいです。
批評をよませていただいた感想、というか思いついたことなどを少し・・・。

最初におことわりしておきたいのは、この詩に関して作者の意図、というのは考慮していただく必要はありません、ということです。
もちろんぼくはぼくなりのつながりのなかで書いているんですが、あんまり伝わりやすいものではないし、伝える必要もないような思いこみなんです。

いま思いだそうとしてるんですが、この詩を書いていたときに何を考えていたのか?(じつは二年くらい前に書いたものなのではっきりとはおぼえてないのですが・・・。)

なんで「夏」なのか?というのは書いたのが夏だったからでしょう。

 まず、題から。ラッシュアワーそのものを、詩として描きたいのか。

あるいは、ラッシュアワーに象徴される深甚な意味があるのか。詩を

読む場合、どちらかの発想になると思います。
(No.165 /三太夫さん)

もとより「深淵な意味」などというもののカケラもないのですが、なんの象徴もありません。ただ単にラッシュアワーの電車がホームに着いて、ドアがひらくと海があふれでてきた・・・というイメージです。

最初は確かに「夏の海」から

作者が素直にイメージしたものの羅列であったのでしょうが、

そのイメージが徐々に派生してゆくに連れ、

特に戯曲のシーンともなると、

そこが「波乗りの島」で、

最後「ドアがひらいて夏の海が流れ込んでくる」と付け足すことで、

何か辻褄を合わせようとしているようにも見受けられます。

それがあまりにも説明的というか言い訳のようで

なんだかしらけてしまうのです。
(No.167 /necoさん)

する仮面劇となる。しかも、それらは「夏の海が流れ込んで」「沈

んでしまいました」と、あっけなく幕を閉じるわけです。幕を閉じ

る以上、この詩の本質にはつながらない部分に思えてなりません。
(No.165 /三太夫さん)

というお二方の指摘されている点ですが、作品のなかに

一方 水平線の彼方 波乗りの島では雷火が立ち
(『ラッシュアワー』)

と書いてますね。「雷火」または「雷」「雷鳴」などは歳時記によると夏の季語で

『この語の起源は「神鳴」であり、もともと漢字の「神」も雷であり雷神であって、天上の威力ある存在者より落とされるものとして古来恐れられていた。夏に多く、落雷により人畜を殺傷し、火災を起こしたりして突然の災害は現代でもなかなか防ぎきれない』
         (「入門歳時記」角川書店)

とあります。たぶんこのへんからの連想だったんでしょう。つまり中国人うんぬんはなんとなくリアリズムの芝居じゃなくておっしゃるように仮面劇風のシーンを考えていたんだと思います。観るものと観られるものの区別がない祭礼の場で演じられるようなものですね。
トートツな終わりかたも雷火からのつながり・・・といってもぼくのなかだけのつながりですが。

冒頭とはまた別の銀色列車なのでしょうが、

(あるいはまた冒頭へ戻る無限のループなのかもしれませんが)

その説明が弱いですね。
(No.167 /necoさん)

necoさん自身は別の列車と思いますか?それとも無限ループだと思いますか?
そのへんを聞かせていただいたほうがnecoさんという方を理解するてがかりともなるかもしれず、ぼくとしてはおもしろいです。だから説明はもともと不要(ぼくのスタンスとしては)のように思います。

P:統一されたイメージというか、キーワードのようなものがあるのかね。そ
れとも本当にただの思いつき……

T:強いて言えば「ドア」だろうね。「銀色列車」のドア、マザーグースも女
房をカボチャに押し込めちまえ、という形で「ドア」が出てくる。戯曲も

「鏡の中に落ち込む主人」というからには入り口、つまり「ドア」がからんで
くる。その後も「騒然とする劇場内。不意にドアというドアが開いて…」というふうに、続く。さらに、島を脱出した神父も出口を出たことになるだろう
(165/三太夫+Tさん)

そんなこと考えもしてませんでした。どちらかというと「思いつき」です。
まあ、詩の「完成」とか「本質」とかあんまり考慮するほうではないのですが、ひとつぼくの詩のつくりかたとして、いくつかじぶんがとらわれているイメージがあって、それらのイメージをカード占いの札のようにあれこれと並べ替えてみたりするわけです。あるとき手を止めてその札の並びを書きとめるわけです。
それが詩なのかどうかは「賭け」ですよね。
ぼくは詩というのはそういう未知のものだと思っています。それが

真面目に批評対象として取り上げるのもばかばかしい。
(165/三太夫+Tさん)

というしろものであったとしても。


投稿時間:00/09/04(Mon) 09:51
投稿者名:藤原 実
URL :http://homepage1.nifty.com/poem-club/
タイトル:Re: サラリーマンばん歌

岡さん、おひさしぶりです。
この詩、例の「詩合わせ」用にいくつか書いたもののうちのひとつです。
あのときは別の詩の方を提出しましたが、これもじぶんでは気に入っていたので、今回こちらに投稿させてもらいました。
いやあ、ここはレベルが高いですね〜。びっくり。ルーズな(ある程度ルーズなフォームに意識してのっかってるんですけれど)作品はきっちり批判されますね。

哀惜、っていうのはぼくは好きです。そういうのを感じていただけたとしたらうれしいです。どうもありがとうございます。


投稿時間:00/09/08(Fri) 03:27
投稿者名:藤原 実
URL :http://homepage1.nifty.com/poem-club/
タイトル:感謝&余談

いとうさん、批評ありがとうございます。他のみなさん(削除になってしまった「三太夫+T」さんも含めて)もあらためてありがとうございました。

みなさんの指摘された欠点、どれも納得のゆくものでした。
みなさんの批判が足並みそろっていたということは、この詩がわりとわかりやすい欠点をそなえていたということでしょう。
しかしそうかといってその欠点を安易に修正してしまうとじぶんの詩でなくなってしまうので、ぼくとしては逆に欠点を魅力に感じさせるぐらいに深めてゆくような方向がないだろうかと考えるのです。
ですから今回は、欠点をそのまま欠点としてしか印象させられないぼくの未熟さチカラのなさを勉強させてもらったな、とみなさんの批評をうけとめさせていただくことにします。

以下は余談として・・・。

「定型化されたたみの詩」というイメージ
     (No.173 /いとうさん)

岡さんもちょっと、たみさんの名前をだしていたので、なにか連想させるものがあったのだろうか?
まあ「定型化」というのは先にあった「札を並べて・・・」といった方法からしてそうなってゆくのではないかなと思います。とくにぼくはこのごろ「定型」に惹かれているのでもちろん意識もしていることです。
ロラン・バルトの『表徴の帝国』(ちくま学芸文庫)というのを読んでたら、

俳優は女形の顔をつくって、女性を演じているのではない、

女性を複写(コピー)しているのではない、ただ単に女性

を表徴するのである。もしも、マラルメがいったように、

表現体は<理念の所作>によってできあがっているもので

あるならば、女形は歌舞伎にあっては女らしさの所作であ

って、女性の剽窃ではない。       (宗左近 訳)

という一節があって「所作」っていうのがなんかいいなあ、とぼくなんかは思うわけです。
所作にしても定型にしても、型じゃないか人間味がないじゃないか、という批判はあると思いますが、そのかわり「軽さ」という快感があると思うし、意味から離れてイメージが透明なようで好きなんですよ。

たみさんの詩のなかのイメージはそうじゃなくてコスプレみたいなところがあるでしょう?
鏡のまえで装っているうちに「これもいいな、あれ、こっちも・・・」
なんてどんどんエスカレートしていって常軌を逸してゆくような過剰さがすごくおもしろくて、たみさんの奔放さというのはそんな印象があります。

また同じ本から、

東洋の女形は女性をコピーしない。女性を表徴する。女形

はそのモデルへと凝り固まらない。モデルから身をひきは

なして表徴する。女形は読みとられるものとして、女性を

現前させるのであって、見られるものとして現前させるの

ではない。   (同上)

たみさんの場合やっぱり「見せたい、見られたい」という感じがするんです。ぼくの場合は逆に「消えてしまいたい」わけです。
鏡に所作の線の後の影だけを一瞬映して、あとは消えたい。
未熟なんでうまく消えられませんが。

あと、マザーグースの日本語訳はぼくじしんの訳ですが、意訳というかデタラメです。
ちなみに谷川俊太郎訳は、

ピーター ピーター かぼちゃがだいすき

けっこんしたけど おくさんにげた

かぼちゃくりぬき おうちをたてて

うまくなだめて ちやほやおもり
       (『マザー・グース 2』講談社文庫)

北原白秋訳は、

ペエタアさん、ペエタアさん、南瓜(パンプキン)ずき、

女房もってもお守りができず、

南瓜(パンプキン)の殻にと、どしこんで、

やっとこ、ほくほくお守りした。
        (『まざあ・ぐうす』角川文庫)

となってます。


内容(「BOOK」データベースより)
「これはエクリチュールについての本である。日本を使って、わたしが関心を抱くエクリチュールの問題について書いた。日本はわたしに詩的素材を与えてくれたので、それを用いて、表徴についてのわたしの思想を展開したのである」。天ぷら、庭、歌舞伎の女形からパチンコ、学生運動にいたるまで…遠いガラバーニュの国“日本”のさまざまに感嘆しつつも、それらの常識を“零度”に解体、象徴、関係、認識のためのテキストとして読み解き、表現体(エクリチュール)と表徴(シーニュ)についての独自の哲学をあざやかに展開させる。

出版社/著者からの内容紹介
季題・季語約八〇〇を厳選した初心者用歳時記。すべての例句にルビを施し、俳句を読みやすく親しみやすくした。例句中の一句に鑑賞文を付し、俳句の理解と実作、季題の情趣の理解に役立つようにした。