Note/世界の詩論/ヒューム「ベルグソンの芸術論」(2)

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2011-02-23 (水) 21:47:09

  • 鮎川信夫は荒地派のスポークスマンであり戦後詩を代表する理論家ということになっていますが、あらためて読んでみると、どうもぼくのアタマではわかったようなわからないようなで、モヤモヤさせられるばかりでした。
    とんでもない読み違えをしている可能性がおおいにあるので、『Xへの献辞』の全文が読めるサイトへのリンクを以下に貼っておきます。

    ブラックニッカさん 「『Xへの献辞』・・・・資料」
    http://79774.diarynote.jp/200611142153570000/
  • この稿の[続き]を書くためのネタ探しにオクタビオ・パスの『弓と竪琴』を読み返しているのですが、そのなかでパスは宗教の救いとは永生の救いであり、それは永生の生を生きることであると同時に永生の死を受け入れることである、と言うようなことを書いています。なぜなら「生と死は不可分」なものであり、「死は生の中に存在し、われわれは死につつ生きる」ものだからです。
    宗教は生と死を対立するものととらえ、ひとが死すべき運命であるゆえに罪を負っていると見る。永生の生を約束するかわりに永生の死という生け贄を要求する。
    一方で詩の救いとは瞬間瞬間の救いであり、「一瞬、その時だけ。一瞬、そして永遠。われわれが過去のわれわれであり、そして未来のわれわれでもある一瞬。生まれることと死ぬこと---一瞬。その瞬間、われわれは生であり死であり、これでありあれである」と言っています。
    詩は死と生を---「これでありあれである」ものとして---和解させ、われわれに「死を生きる」ことを示す。
    西脇順三郎の言う「救済」もそんな瞬間の救いなんじゃないでしょうか。

    荒地派が中途半端---ぼくはそういう感想を持っているのですが---なのは、死を生け贄としながら、その死を託すべきものがなんだったのかよくわからないところです。『Xへの献辞』でくりかえされる「罪」や「宗教的倫理」や「回心」やらの対象がアイマイすぎると思います。


    といっても、ぼくも荒地派を全否定しているわけではないのです。鮎川や吉本はダメでしたが、田村隆一はむかしもいまも好きな詩人です。


    正直言って、宗教と詩の問題に、思想や倫理あるいは信仰的立場から深く考えたことがないので、あくまでも詩のコトバでとらえようとしているだけにすぎないのかもしれません。
    以前、そんな面から詩と禅に関する文章を書いたことがあるので、もしお時間があればのぞいてやってください。
    「無門関 ZEN & POEM http://pesyanko.itigo.jp/wiki/index.php?MUMONKAN