MUMONKAN/倩女離魂

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【第35則】


   三十五 倩女離魂

五祖問僧云、倩女離魂、那箇是眞底。
無門曰、若向者裏悟得眞底、便知出殻入殻如宿旅舎。其或未然、切莫亂走。驀 然地水火風一散、如落湯■(虫+旁)蟹七手八脚。那時莫言、不道。

    頌曰
  雲月是同 渓山各異
  萬福萬福 是一是二


  三十五 倩女離魂(せいじょりこん)

五祖、僧に問うて云く、「倩女離魂、那箇か是れ真底」。

無門曰く、「若し者裏に向かって真底を悟り得ば、便ち知らん殻を出て殻に入ること、旅舎に宿するが如くなるを。其れ或いは未だ然らずんば、切に乱走すること莫れ。驀然(まくねん)として地水火風一散せば、湯に落つるボウ蟹(かい)の七手八脚なるが如くならん。那時(なじ)言うこと莫れ、道わずと」。

    頌に曰く
雲月是れ同じ、渓山各々異なり。
万福万福、是れ一か是れ二か。


五祖山の法演和尚が問いかけた。
法演『倩女という娘のからだからタマシイが抜け出たというハナシはしってるかい?。あの場合、からだとタマシイとどっちがほんとの倩女なのだろうか』

「『倩女という娘のからだからタマシイが抜け出たというハナシ』は『唐代伝奇集』という本のなかの『離魂記』(作:陳玄裕)というハナシのことで、倩女という娘が恋人とかけおちする。五年ののち、正式に結婚を認めてもらおうと夫と子供と共に実家に帰る。ところが、実家にはもうひとりの倩女がいて、五年の間虚脱状態で寝たきりになっていた。ふたりの倩女は対面するや、たちまち合体して、ひとりの倩女に戻った、という」
「ふたりのうち、どっちがほんとの自分だったんか?」
「『離魂記』は怪談やけど、公案の場合は自己の内面のモンダイとして考える。このハナシのような分身現象を精神医学の方では『二重身(ドッペルゲンガー)』と言うらしい」


二重身の現象というのは、二重人格と異なり、自分が重複存在として体験され、「もう一人の自分」が「見えたり」、「感じられたり」することである。これは精神医学的には二重身、あるいは分身体験などと呼ばれ、自分自身が見えるというので、自己視、自己像幻視などといわれたりする。この現象は、いろいろ場合によって異なり、単に自分の姿が暫くの間見えたという体験や、もう一人の自分が自分の考えを妨害すると感じられる体験、それに、自分の分身が遠隔地に全く独自の行動をしているというものまで含める・・・・・・。
――― 河合隼雄『コンプレックス』(岩波新書)



「二重身の例を河合隼雄『影の現象学』(講談社学術文庫)から抜き書きすると、

1:自分自身の像が見える場合。
2:自分と姿形は違うが、自分であると直覚的に判断される場合。
3:自分の姿が鏡に映らない場合。マイナスの自己像幻視と呼ばれるもの。
4:鏡に自分の姿が二人映る場合。
5:もうひとりの自分が別の場所にいる場合。例えば「あなたの前にいる私は分身のほうで、本当の私はいま、下宿で寝ています」というひとがいた。
6:姿形や名前は、まったく別の人間なのだが、じつはもうひとりの自分に他ならない、という場合。
7:自分の外に自分が存在し、自分自身の姿を眺めている場合。



などなど。河合さんによると、すべての二重身現象の背後には『ぼくはほんとうはなんなのか?』、『ぼくとは何か、人とは何か』という根元的な問いが存在している、という」

ユングの夢。
『・・・・・・祭壇の前のその花の上に一人のヨガ行者がこちらを向いて、結跏趺坐し深い瞑想にふけっていた。彼の顔をもっとよく見ると、彼は私の顔をしていることがわかった。私は深い恐怖に襲われ、目覚めながら考えた。「あー、彼が私を瞑想している人だ。彼は夢を見、私はその夢だ。」若し彼が目覚めたら、私はもはや存在しなくなるだろうと、私は知っていた。』
――― 『コンプレックス』

ユングの夢。
『(空飛ぶ円盤が)・・・・・・空中を飛んできた。それはひとつのレンズで、金属でひとつの箱----魔法の幻灯----につながっていた。それは六、七十メートルの距離に静止して、まっすぐ私に向かっていた。私は驚きの感情とともに目覚めた。半分夢の中で考えが頭にひらめいた。すなわち、「われわれは空飛ぶ円盤がわれわれの投影であるといつも考えている。しかし、今や、われわれが彼等の投影となったのだ。私は魔法の幻灯から、C・G・ユングとして投影されている。しかし、誰がその器械を操作しているのか」と』


これは深く、ある意味では恐ろしい夢である。現実の人物は魔法の幻灯によって映された影にすぎないという夢である。それでは幻灯を操作するものは誰か。それにユングは「自己である」と答える。私が意識し、私が知っている私の背後に存在する、真の私とも言うべきものが自己なのである。
われわれは元型としての自己について知り得べきもないが、その働きやイメージを意識化することができる。それを通じて自我のかたよりをなくしつつ、あくまで真の自己へと近似しつづける過程を、ユングは自己実現の過程と名づけたのである。
――― 『影の現象学』



「ひとはなぜ『わたしとは何者か?』というような問いを発するんか。それは日常と非日常の境目で、自分ともうひとりの自分との間の矛盾に引き裂かれる自殺行為なのに」

われわれはかつての人類が思想の完結のために、世界を死後の世界や地界にまで拡張したように、ひとつの世界の拡張を行うべきではないだろうか。それは、われわれの心の世界の拡張であり、われわれの知っている心の世界の下に----あるいは上に----より広い領域の存在することを認めるべきであり、それは取りもなおさず、おのれの心の中に地獄を見出すことになるであろう。


おのれの心に地獄を見出し得ぬ人は、自ら善人であることを確信し、悪人たちを罰するための地獄をこの世につくることになる。心の世界を拡張するということは、近代科学によって否定された魂の存在について、もう一度見直すことにもなるであろう。
――― 『影の現象学』



「詩人はこの矛盾の地獄の闇に墜ちて一度死ぬのだ。その地獄で<イメージという不可分な意味の束>をつかむや、再生する」

(ある女性の)夢の中で幼女は暗闇におびえつつ、明るくすることを拒むのである。これは考えてみると矛盾した態度のように思われる。・・・・・・十九世紀の合理主義に対して、シンボルの再生へと決意する現代人の在り方、という点に思いいたる。
シンボルの真の探索は暗がりの中で行わねばならぬ。明るさのなかではシンボルは生命力を失ってしまうのだ。暗さに耐える人にのみ、シンボルはその真の姿を開示してくれる。そして、彼女の腕に抱かれた幼女はそのパラドックスを知っている。
啓蒙の光によってすべてを白日のもとにさらすか、暗闇に耐えることによって、恐ろしくはあるが、シンボルの生きた姿に接しようとするのか。彼女はこの二者択一に際して、後者を選ぶことを決意したのである。
――― 河合隼雄『無意識の構造』(中公新書)



「またもや引用ばかりになってしまったけど、でも、これらのことはボクにとっても、すごく heavy なモンダイなので自分のコトバにしようとすると断片的なモノローグにしかならないので残念・・・・・・。」

詩は始めから終わっている。

めざすのは創造ではなくて再生である。

鏡のなかの’わたし’の断片を拾い集めてジグソーパズルのように並べる。

現実はすでに破壊されている

ゆえに

”わたし”とは「象徴」である。

コトバとは分裂した自我である

あるいは

二重写しの自我である

『判決が先で、罪は後』

置換という遊戯。愛という贖罪。

詩とは愛と幻想による象徴である

自分の外部にある言語を積み重ねるのが詩ではない。
自分を言語のなかに投げ入れて自分自身を’言語的に切断する’行為が詩である


<心とはいかなるものを言うやらん墨絵にかきし松風の音> 一休禅師



   1999/03/06


三十六【路逢達道】