MUMONKAN/路逢達道

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【第36則】


   三十六 路逢達道

五祖曰、路逢達道人、不將語默對、且道、將甚麼對。
無門曰、若向者裏對得親切、不妨慶快。其或未然、也須一切處著眼。

    頌曰
  路逢達道人 不將語默對
  ■(才+闌)腮劈面拳 直下會便會


  三十六 路に達道(たつどう)に逢う

五祖曰く、「路に達道の人に逢わば、語黙を将て対せざれ。且く道え、甚麼(なに)を将てか対せん」。

無門曰く、「若し者裏に向かって対得して親切ならば、妨げず慶快なることを。其れ或いは未だ然らずんば、也た須(すべか)らく一切処に眼(まなこ)を著(つ)くべし」。

    頌に曰く
路に達道の人に逢わば、語黙を将て対せざれ。
ラン腮(さい)劈面(へきめん)に拳ず、直下に会せば便ち会せよ。



法演和尚 『道を究めた人に逢ったとき、コトバでくどくどいうのもいけないし、かといって黙ってしまうのもいけない。おまえさんたちならどうする?』



「『路に達道に逢わば、語黙を将て対すること莫れ』というのは、もともとは五則【香嚴上樹】の香厳和尚のコトバだそうだ。そうすると自己矛盾に引き裂かれたときどうすべきか、ということとか、コトバに関しての二十四則【離却語言】と同じようなモンダイとしても考えられるけど、今回はちょっと目先を変えてギリシャ神話などはいかがかな?有名な”エロースとプシューケー(アモールとプシケー)”の物語。

ある国にプシューケーという王女がいた。非常な美しさを持った娘だったんだが、それゆえに美の女神アプロディーテーの怒りをかって、誰もプシューケーに結婚を申し込むことがないようにされてしまった。彼女は自分の美しさと孤独をなげき悲しみ、愛のこころを閉ざしてしまう。
やがてプシューケーはアポローンの神託によって怪物と結婚することになる。ゼピュロス(西風)に運ばれて着いた森の黄金の宮殿が彼女と怪物の新居なんやけど、そこにはひとけはなく、ただ声だけで姿は見えない召使いがプシューケーの望むものはなんでも用意してくれて、いたれりつくせり。夫も優しく愛情に満ちた様子で彼女に接してくれる。ただ彼もけっして姿は表さない。そのことを少し不満に思いながらも彼女は幸福にすごしていた」
「『美女と野獣』やな」
「あれのもとになってるんかもね。ところでプシューケーにはふたりの姉がいた。彼女らは妹のこの幸福をひそかに妬んで、なんとかプシューケーと夫の仲を引き裂いてじぶんたちが取って代われないかと画策するんや。姉たちは姿を現さないプシューケーの夫を人食い大蛇にちがいないと言い、それを確かめてからナイフで夫の首を切り落とすようにとプシューケーに入れ知恵する。ある夜プシューケーはナイフを握りしめて寝込んでいる夫の姿をランプで照らしだした。するとそこにいたのは怪物どころか神々の中でももっとも美しく魅惑的なエロース(アプロディーテーの息子)だった」


『「おお愚かなプシューケーよ、これが私の愛に対するおまえの仕打ちなのか?私は母の命令にそむいておまえを妻にしてしまったのだが、その私を怪物と思いこみ、この私の首をはねようというのか?だが行くがよい。姉たちのもとへ帰るがよい、おまえは私の忠告よりあの二人の忠告の方がよいと思っているようだからな。私は、おまえに対して他になにも罰は与えないが、おまえのもとからは永久に去ることにする。愛は疑いといっしょに暮らしてはゆけないからだ」。そう言うと彼は、哀れなプシューケーが地上にうちふし、はげしいむせび泣きでその場を満たしているのもかまわず、そのまま飛び去っていったのです。』
     (トマス・ブルフィンチ「ギリシア・ローマ神話」<大久保博訳/角川文庫>)



「M.-L.フォン・フランツによれば、ランプとは人間の意識の象徴だという」

『明かりは、どんな神話の文脈にあっても意識を象徴している。ランプの光はとりわけ、太陽の神的で宇宙的な性格とは対照的に、人間にとって意のままに使え、制御できるものを表わす。C・G・ユングがよく指摘していることだが、魂の無意識の生命を、意識的な明瞭で論理的なカテゴリーによって説明しようとしても不可能である。「光」が多すぎると、魂を損ねてしまう。』
   (M.-L.フォン・フランツ『男性の誕生----「黄金のろば」の深層』<松代洋一、高後美奈子 訳/紀伊國屋書店>)



「二十八則の【久嚮龍潭】で徳山にさしだした提灯の灯をふきけした竜潭和尚を思い出す。あのときのハナシではあれを単純にコトバの否定とは取れないということやったんとちゃうか」
「そうそう、だから今回も単純にプシューケーの行為をオロカだとは言いきれない。黄金の宮殿での夢のような暮らしは、すばらしいけど、それは日常からあまりにもかけはなれた非人間的な世界やろ。『一即多、多即一』という絶対無の立場からいえば、『一』だけの世界で、『多』が排除された世界や。そういう無意識の世界の豊穣さに幻惑されて完全に埋没してしまっては、自閉的に閉ざされた世界で無意識の生命力も結局行き場を失って枯渇してしまう。プシューケーはエロースの姿を『見た』ことで苦しむけれど、そのことによってはじめて孤独のなかに閉ざされていた彼女の愛のこころが、具体的な対象である夫エロースに向けられることになったんだから」
「プシューケーは結局どうなるん?」
「それは、これからギリシャ神話を読むひともいるかもしれないから、だまっとこう。おもしろいよー」


  『蛇』 永瀬清子

鏡の中に棲んでいる蛇よ
朝のつめたいガラスの中を泳いで
たちまちわが瞼毛のかげにかくれたものよ
お前は姿をみせるのをいとう
お前の含羞はすみやかに
然しお前は長く私の中に棲む。
多分かの失楽の時以来。
お前の姿は私にいつも波紋をのこす
お前は自分を毒あるかと恥じる。


なめらかにそしていたいたしいものよ
藍と朱の瞬間よ
出ておいで久しい友
美しい夏の光のいま燃える時に
わが翳より出ておあそび
ひとときの
ひとときの樹々のくるめきに
その患いをお忘れ
わが心をお前のさびしい園に。


やがて消えるこの光の中で
在ることの
何故そう苦しい?
わが姿を
人の目にもとまるまいと悩む?
或いは人の心を誘うまいとおじる?


空の色
いま純粋なるきわみ
すべてのもの燃えてきよらかなるこのひとときに!



   1999/04/08


三十七【庭前栢樹】